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成都現地観光情報

中国人は日本の物価に興味深々
中国に行くと、しょっちゅう現地の人から日本人の収入や家の値段、物価について聞かれます。特に収入について聞かれると困るのです。年齢や職業にもよって全然違うので。私は日本の物価を知ってもらうためにラーメンが1杯いくらとかスーパーでりんごが1個いくらなどという説明をします。「りんごは一番安いときで1個6元(約96円)ぐらい」というと、中国人はみんな「たっ高い!」とびっくりします。そして「ねえ、りんごって1個、2個で買うの?」と逆に質問されるのです。
たくさん買うのが好きだから中国人は量り売りが大好き!たくさん買うのが好きだから中国人は量り売りが大好き!

日本人とは違う中国人の果物の買い方
「そうよ。ナシも桃もよ」と答えると、「どうして量り売りじゃないの?日本には量り売りはないの?中国はみんな1斤で値段が決まっているのに」と言われます。1斤は500グラムです。中国で果物の値段を聞くと必ず1斤いくらかの値段を言われます。1個ではないのです。この2,3年急激に物価があがり、果物も以前ほど安くないのですが、もともと安かったので、日本のようにりんごを1個2個という買い方を中国人はしません。1斤だけ買う中国人も珍しく、ビニール袋にいっぱい買っていくのです。
どうして量り売りが好きなの?
現代の中国では核家族化が進んでますが、もともとおじいちゃんもおばあちゃんも一緒に住む大家族でした。果物を1個や2個といったちまちました買い方では、みんなで食べられません。それで量り売りで必要な分を買う習慣が残っているのではないでしょうか? 街にはあめやチョコレートなどの量り売り屋さんがあり、スーパーにも必ずお菓子やナッツ類の量り売りコーナーがあります。パン屋でもカップケーキ、パウンドケーキなど様々なお菓子類が量り売りです。
慣れていない日本人には難しい量り売り
量り売りの大量買いが習慣になっている中国だから、少しずつ買う日本人は困ります。果物を買うとき、私は2,3個で十分と思っているのに、「これに買う分だけいれて」と大きな袋を渡されます。「少しだけだから小さな袋はないの?」と言ってもないケースがほとんどです。りんごやナシが産地の村に行くと、村人が売りにきます。村人はたくさん買ってくれると期待でいっぱいなのに、日本人が買うのはほんの数個。がっかりした村人の顔を見るのもつらいですが、量り売りの大量買いは、「日本人にはつらいよ」です。
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成都旅行観光情報


人工衛星発射基地でもあり、古城もある四川省の都市
中国の西南部、四川省の有名な町と言えば成都九寨溝、楽山など、世界文化遺産や観光地です。日本人には知られていませんが、西昌も有名です。西昌は人工衛星の発射基地として知られています。山の多い四川省の都市の中でも西昌は大きいほうです。「西昌に行くの?行ってもおもしろくないよ。都会だよ」と言う旅好きの中国人もいます。確かに中国の都市は再開発のしすぎで、どこも似通ってきています。しかし、西昌には「西昌古城」と呼ばれる旧市街がちゃんと残っています。このあたりのぶらぶら歩きが楽しいのです。
中国の人工衛星発射基地、四川省西昌の旧市街ぶらぶら歩き中国の人工衛星発射基地、四川省西昌の旧市街ぶらぶら歩き

しぶい民族衣装のイ族に出会える町
四川省の中でも雲南省に近い西昌は、涼山イ族自治州の州都です。イ族やチベット族回族など28もの少数民族がすむ民族色豊かな都市です。少数民族の中でも一番多いのはイ族で、西昌の人口の約15%を占めています。そのため、通り名や看板には漢字に記号のようなイ族語の文字が併記されています。イ族は少数民族の中でも民族衣装がかなり渋い系で目立ちます。大きな黒い凧のような帽子をかぶり、カラフルなロングスカートをはいたイ族の女性の写真を見たことがありませんか?そんな民族衣装をばっちり決めたイ族の女性と出会える確率が高いのが西昌古城です。
茶館で日がな1日を過ごす四川人男性に言いたい!
四川省は古鎮や古城が多く、古い街並み歩きが好きな人にはたまらないところです。有名なところは修復のしすぎて、行ってみると、建物が新しく興ざめだったなんてこともあります。しかし西昌古城は、ほどよい状態で残っています。黒くて小さな瓦屋根の低い2階建ての民家が並んでいます。外壁に梁が何本も見えている四川式の民家の中には茶館もあります。ここでは男性が賭け事をしたり、のんびりお茶を飲む姿を見られます。この茶館文化は四川文化を代表するものです。しかし、「もっと働いてもいいんじゃないかい!」と言いたくなるほど、四川の男性はこの茶館に入り浸っています。
西昌古城に行ったら大通門に行こう!
さて西昌古城の中で一番重要なのは、大通門です。明朝の洪武20年(1387年)に建てられた楼閣です。現在のものは修復されたものですが、登ると、西昌古城を一望することができます。この大通門の南側は、イ族の民族衣装や民族雑貨屋さんが集まっているところです。黒を基調としたスカートやマント、渦巻模様のモチーフのバッグなども売っています。この民族グッズ屋さん巡りも楽しめます。商業化の波もほどほどに、古いままの姿が西昌古城には残っています。有名ではありませんが、イチオシの穴場ですよ。
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成都旅行・観光の見どころ・観光情報

成都(チェントゥ)のショッピング情報
成都(チェントゥ)は中国西部で重要な商業の中心地。豊かな土地の産物が集まり、食品から雑貨までさまざまな商品が売られている。名産品としては成都(チェントゥ)近郊のピーシエンで作られた豆板醤や、ピーナッツや麻婆豆腐のもとなどの辛い味付けの食品、雅安で栽培された蒙山茶、成都刺繍や漆器などの工芸品など。繁華街は春熙路で、ショップが軒を連ねており日系のスーパーやデパートもある。また、錦里や寛乍巷子、文殊坊など古い街並みを再現したスポットでも、お土産の買い物ができる。
成都(チェントゥ)の気温・降水量ベストシーズン情報
四季があり、冬は比較的温暖だが、夏は蒸し暑い。春、秋が天気もよく、観光のベストシーズン。足を延ばして、高地へ行く場合は、夏でも服装に防寒着を加えること。
初めての中国、あなたにとって中国の物価は高い?
2013年の秋、私はパンダのふるさと、四川省成都にいました。泊まっていたユースホステルには会社を辞めてきた日本人長期旅行者の若者が何人もいました。みんな初めての中国旅行のようです。中国の物価について聞いてみました。日本から直接、中国に来た若者は「日本の物価より安いので、特に高くはないです」と言います。タイやベトナムを経由して来た若者は「予想以上に高くてびっくりしてます。特に交通費きついですね」と言うのです。タイは中国より物価が安いと言われています。日本人もタイを経由してくると、中国の物価高が身に染みます。本当に中国の交通費は値上がりしました。中でもバス代はかなり高くつきます。
中国旅行でかかる費用はいくら? その2 バスもしくは汽車、安いのはどっち?編中国旅行でかかる費用はいくら? その2 バスもしくは汽車、安いのはどっち?編
バスがメインの雲南省四川省の旅
大陸の鉄道網は発展していますが、内陸部には鉄道が通っていない地方があります。日本人も大好きな四川省九寨溝や、世界文化遺産に登録された雲南省の元陽などがそうです。四川省雲南省は山が多く、バスの旅がメインです。中国のバス路線は緻密で行けないところはないほどです。しかも高速道路も整備され、バスの旅は日本以上に便利です。私が初めて雲南省の一番南の西双版納(シーサンパンナ)に行ったのは94年でした。西双版納は東南アジアのような風景や文化を楽しめる観光地です。高速道路はなく、省都昆明から西双版納までバスで36時間かかりました。今では、昆明からの高速道路が全線開通し、所要時間はたった8時間です。
タイよりずっと高い中国の高速バス代
早くて本数が多いので、便利なバスの旅ですが、石油の値上がりにつれて、バス料金は上がりました。料金は距離によって決まっていますが、高速道路を走るかそうでないかによっても異なります。四川省の観光地の場合、南部の自貢は成都から約216キロ、すべて高速道路です。所要約2時間で料金は約80元(約1440円)。四川の東北部にあり、三国志の史跡が多い広元は成都より350キロ、全高速で約3時間、料金は約120元(約2160円)。毎日、移動すると、交通費はバカにできません。もし、ゆったりと中国旅行をする予定なら、できるだけ交通費は節約したくありませんか?
出発時間と塔茶時間が決めての鉄道の旅
交通費を節約する方法は、鉄道とバスの両方があるところは鉄道を選ぶことです。成都から自貢の場合、所要時間は約5時間ですが、料金はハードシートで約40元(約720円)。広元も同じく約5時間です。ハードシートの料金が約46.5元(約837円)。鉄道は時間が倍かかりますが、代金は半分から半分以下になります。出発時間、到着時間が選ぶ基準ですが、その時、列車は必ずTもしくはKで始まる番号のものを選びましょう。Tは特快、Kは快速の略です。数字4桁の列車は普通です。中国旅行の費用を節約するには、鉄道旅行を取り入れてみるのがおすすめです。
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成都のグルメ

成都(チェントゥ)旅行・観光の見どころ・観光情報
担担麺
辛い料理で知られる四川省省都四川盆地の中心に位置するこの都市の歴史は古く、三国志劉備玄徳が治めたことでも知られている。また、四川省九寨溝黄龍楽山大仏大足石刻など、多くの世界遺産を抱えており、成都はその世界遺産観光の基点となる都市でもある。市内の観光地は、唐代の詩人、杜甫の住居址に建つ杜甫草堂、三国志の聖地として知られる武候祠、パンダとふれあえる成都パンダ繁育研究基地などがおすすめ。もちろん激辛の四川料理も味わえる。
成都(チェントゥ)旅行・観光の選び方
大自然? それとも歴史? 何をメインに観光したいかで決まる
成都を基点とするツアーは、日本発の直行便で4~5日間のものが多いが、8~9日間の周遊タイプがかなり増えている。短期ツアーは、九寨溝とパンダ繁育研究基地、成都市内と峨眉山楽山大仏などが中心。周遊タイプは、雲南省世界遺産麗江広西壮族自治区の桂林と組み合わせるなど、様々だ。また、わずか5日間ながら、チベット自治区のラサも一緒に訪れるものまであり、成都が含まれるツアーはバラエティに富んでいる。食事は、本場の四川料理を代表する火鍋、担担麺、麻婆豆腐が味わえる。
成都(チェントゥ)のグルメ・伝統料理
成都の郷土料理であるは四川料理は、四川省とその周辺省などで形成された料理の系統で、唐辛子と山椒の実を多用する「麻辣(辛くてしびれる)」味の食事が特徴。麻婆豆腐や青椒肉絲、担担麺など、日本でもおなじみの料理が多いが、本場の味は日本のものとかなり異なる。成都はそんな四川料理の本場として有名なグルメの町。おすすめは賽の目に切った鶏肉とピーナツを唐辛子とともに炒めた宮保鶏丁や、辛い鍋料理の火鍋、ゆでワンタンの抄手など。
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四姑娘山ハイキング

四姑娘山ハイキング

四姑娘山(スーグーニャンシャン)は、中国四川省北西部の自然保護区となっている景勝地です。四姑娘山のトレッキングは日隆鎮という村(現在は四姑娘山鎮)を拠点にします。日隆鎮は四川省省都成都より230㌔離れていて、専用車で3時間位で行けます。

四姑娘山は、その名のとおり、四人姉妹が並ぶ中国・四川省の霊峰です。長女・大姑娘山は5335m、次女・二姑娘山は5454m、三女・三姑娘山は5664m、末娘・四姑娘山は一番背が高くて6250mです。4つの高い山をはじめ、綺麗な花や湖など、たくさんの自然風景を楽しめ、中国のアルプスと呼ばれており、この世の別天地として国内外で人気を博しています。

四姑娘山は高山植物の宝庫です。幻の花といわれるブルーポピーをはじめ、さまざまな希少な花が咲き乱れています。高地順応を兼ねて近くの長坪溝や、双橋溝や海子溝でトレッキングし、高山植物のお花畑をご堪能ください。
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九寨溝黄龍観光

九寨溝黄龍観光時高山病対策
九寨溝 黄龍旅行時の高山病対策 九寨溝 黄龍旅行時の注意事項
高山病とは、2500m以上の高所に登った時点から、6時間~数日以内に頭痛、めまい、食欲不振、脱力、呼吸困難などを示す低酸素環境症状群です。通常、急性高山病は、高所に到着後6~12時間で発症し、2~3日でピークになり、4~5日後には消失します。安静、保温、酸素吸入で経過を観察しますが、症状が改善しない場合は下山することが必要になります。一方、安静時においても呼吸困難があり、脈拍数が120分以上の時は酸素吸入のうえ、すみやかに下山を考慮します。

九寨溝の標高は約2000m~3100mなので、最奥の長海などで、高山病発症する人が殆どいません。黄龍の標高は約3100m~3600mで、ここで発症する人が多くいます。ロープウェーで一気に上りますから、最奥の五彩池までの遊歩道(約3km)で、発症し出すのが普通です。このため、遊歩道には酸素吸入処が設置してあり、無料(吸入パイプ代1元)で酸素補給ができます。なお、弊社最高する九寨溝 黄龍ツァーでは現、簡易酸素ボンベをお一人様に一本ご進呈致します。

九寨溝 黄龍旅行で、事前に準備できるのは、体調を完全にすることです。睡眠不足・疲労は最大の敵ですから、十分な睡眠、疲労を避ける、腹八分目の食事、禁酒禁煙、風呂を避ける(軽いシャワー程度は可)ことです。高地に至ったら、行動はゆっくり目にし、深い呼吸、十分な水分補給、糖分補給(飴をしゃぶるなど)をすることです。

もし高山病の初期症状(頭痛・吐き気など)が感じられたら、酸素吸入を行い、少し休み、速やかに下ることです。

また、体質に心弱い方は、高山病対策からで、標高の低い九寨溝観光を先にし、黄龍観光を後にする旅程を選んでいただくことです。飛行機時刻で、延泊するかもしれませんが、せっかくの九寨溝 黄龍ご旅行で、ゆっくりした計画をして頂きたいです。或いは体質が弱くて、黄山病を心配していますが、どうしても九寨溝を旅行したい方は黄龍(こうりゅう)に行かず、九寨溝のみのツアーに参加して頂きたいです。

弊社催行した九寨溝 黄龍ツアーに参加したお客様のご感想、体験談を尋ねた結果及び経験によりますと、体が弱そうなお客様が何も無く、全然大丈夫でした。逆に、体が丈夫で、特にスポーツ選手みたいな自身を持っている方は発症したことが分かりました。下記の点を念頭にして、中国絶景の九寨溝 黄龍の美しさをご堪能頂きたいです。

① 充分に睡眠を取ること。睡眠を良くとり、体調を整えておくこと。
② 水分補給:水分を多めに取ること。
③ 急な動作はしないこと。走ったり、大声を出したりは厳禁です。
④ 深呼吸:深く大きく息をして酸素を体内に取り入れること。
⑤ 酸素吸入:頭痛が起こったら早めに鎮痛剤をのんだり、酸素ボンベを使ったるする。
⑥ 食事やお酒はやや控えめにたくさん食べすぎないこと。
⑦ 頭痛や吐き気が悪化してきたら下山する。
⑧ 飴をなめること。
⑨ 強壮薬の”紅景天”を前日飲むこと。
⑩ お風呂も湯船につかることは避けて、軽くシャワーのみにすること。
⑪ 暖かいシュラフの準備を暖かくして、ゆっくり休養すること。
⑫ 高山病になったら、その日は停滞して、決してそれ以上高度を上げないこと。
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成都 観光 ツアー

成都は中国十大古都に選定。
2016年10月22日から、25日にかけて、中国成都で、『中国古都学研究論壇』を催しました。中国各地からの古都学、歴史学、地理学、考古学などの各分野の100人以上の専門家が成都に集まり、4日間の検討を経て、全国古都学の学者達が《中国古都学会・成都共識》を達成し、正式に『成都(せいと)』を中国大古都に選定しました。この前、中国古都学会は認定した中国九大古都は西安(せいあん)、洛陽(らくよう)、南京(なんきん)、北京(ぺきん)、開封(かいほう)、杭州(こうしゅう)、安陽(あんよう)、鄭州(ていしゅう)、大同(だいどう)がありますが、今回の成都を入れて、中国十代古都となりました。
成都寛窄巷子
成都(せいと)は4500年間の都市文明の歴史文化名城です。成都(せいと)は昔から中国西南地区の重要的な政治、経済、文化の中心地となっていますし、五代古蜀、成家、蜀漢、成漢、前蜀後蜀などの都として1000年以上の首都歴史を持っております。特に成都のお城の遺跡も杜宇王朝から今までの3000年間で、ずっと変わっていないですし、成都という都の名前も戦国時代から、ずっと変わっていないですし、これは都市の歴史上、とても珍しいと言われています。成都の宝墩古城から金沙遺跡まで、先秦時期の五代では、古蜀王は始めて成都で都を置き、輝かしい宝墩文明、三星堆文明と金沙文明を開き、古蜀文明は世界第八大奇跡と称されます。成都を中心とした長江上流地区の中華文明の発祥地となっています。漢代では、成都は全中国の五大商業都市の一つとなり、唐代では、成都は全中国の最も先進した工業商業都市の一つとして、四川盆地の地理、天候に恵まれ、『天府の国』とも言われ、国家級の大都市と言えるのでしょう。宋代では、蜀(成都)の商人は世界で最も早い紙幣の『交子』を発明しました。
成都 蜀錦
この一方、成都は中国唯一の三大経済帯の南方シルクロード、北方シルクロード、長江経済帯の交差点で、古代から、中国内陸の外国との貿易のターミナルとなっています。いにしえの先秦時代でも、成都は東南アジアと貿易、文化などの面で、頻繁的に交流しました。成都を起点とした南方シルクロード雲南ミャンマー、インドを経て、東南アジアの沿線各国では、影響力がとても大きかったです。そして、『蜀錦』を始め、成都は漢代の重要なシルク製品の産地でした。特に漢代より、唐代に掛けて、数百年間で、『蜀錦』は北方シルクロードの重要な商品として、西域、中部アジア、ヨーロッパまで売れ、凄い人気商品でした。
成都金沙遺跡博物館
また、成都には多彩多様な名勝旧跡、観光名勝があります。成都市内には、世界文化遺産の青城山‐都江堰(せいせいざん・とこうえん)、有名な成都パンダ繁殖基地を始め、金沙遺跡(きんさいせき)、三国志諸葛孔明の武候祠(ぶこうじ)、唐代大詩人の杜甫草堂(とほそうどう)、永陵(えいりょう)、錦里(きんり)、寛窄巷子などの歩道街、春熙路などの繁華街がありますし、成都は辛いマーポー豆腐、タンタン面などの四川料理、四川火鍋の本場です。特に成都の近辺には世界遺産楽山大仏(らくざんだいぶつ)、峨眉山(がびざん)、四姑娘山などがあり、1時間の飛行機で、世界自然遺産の中国絶景、秘境の九サイ溝(きゅうさいこう)、黄龍(こうりゅう)を訪れます。とにかく、成都はとても魅力的な観光都市で、チャンスがあれば、是非、魅力溢れる成都へ旅行にお越しください。
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四川省徳陽市三国志遺跡


農村バスで、徳陽市北 15kmにある徳陽市旌陽区黄許鎮北にある旧綿竹古城跡を見学。漢、蜀、西晋の時代、綿竹城はここにあった(東晋の時代に県役所が現在の綿竹城へ移転)。別名、「土将台」遺跡ともいう。徳陽北バスターミナルから、路線バス(徳陽⇔略坪)2元、「新龍村十三組」にて下車。快速バス(羅江行バス)2.5元、黄許鎮中にで下車、バスorバイクタクシー乗換。それぞれ、15分に1本あり。

蜀末期の263年10月、諸葛瞻(37歳)とその子諸葛尚(19歳)、諸葛京らは蜀成都より防衛都督に任命され、涪城(今の 綿陽市)へ入城。ここで、鐘会の先方隊を撃破する。そして、いったん涪城から撤収して、戦線をこの綿竹城まで引き下げた。綿竹城滞在中、鄧艾からの降伏勧告の使者を激怒して切り伏せる。

そして鄧艾本隊を迎え撃つべく、綿竹城から出て、対岸の白馬関の峠にて迎撃態勢をとる(だいたい北東方面へ距離10kmぐらい、徒歩2~3時間離れた山間部を戦場に選んだのも、蜀の滅亡を予期し、少なくとも綿竹城内の市民らの巻き添えを避けるためであったと推察される。実際、諸葛瞻は蜀政権の腐敗に嫌気がさし、長らく病を理由に中央政庁への登庁を拒んでいたらしい)。死に物狂いの魏軍に対し、多勢に無勢、完膚なきまでに敗北し、諸葛父子、張遵(張飛の孫)、黄崇(黄権の子)ら名立たる将軍が戦死し、残兵らは皆、散り散りに離散した。

そののち、綿竹城の守備軍も、魏軍の攻勢にあえなく落城。 そして、鐘会の魏軍はそのまま南の雒城(広漢市)を無傷で占領し、成都へ迫る。その知らせをうけて、劉禅は降伏する。諸葛瞻の蜀防衛軍敗北の知らせを受けた姜維などの蜀主力軍は、剣閣より急ぎ戻り、雒城(広漢市)へ入城するも、劉禅の命令を受け武装解除するに至る。

まさに、蜀滅亡の 最終局面 の戦いであったわけである。

かつての古城跡から北東方面の白馬関の山脈を臨む。ここから峠を越えて、北の涪城(現在の綿陽市)との間に古道があったのであろう。その綿竹側への入り口付近である、白馬関にて魏軍を迎え撃った、わけである。現在、白馬関一帯は、古戦場跡の公園となっている。
その中には、諸葛点将台(ここで諸葛瞻らが本陣をかまえて、魏軍を迎えうった地)という場所も残されている。
さて、その三国時代の 綿竹城跡 であるが、もう今はすっかり水田と農村地帯である。

水田の畦道へ分け入り、河辺まで前進してみた。断崖絶壁である。畦道を歩いていて感じたのは、昔の古城跡からの転用なのか、石ころがたくさん含まれていた。普通の畦道は土を盛っただけなのに、ここでは石がふんだんに混ぜ込められていた。

三国時代の綿竹城跡から綿遠河(かつて綿水と呼ばれていた)へ目を転じると、結構な高さがあった。昔は、もっと河辺に近い城だったに違いない。つまり、今は台地部分となってしまった、この水田の下にかつての城壁都市の市街地が眠っているのであろう。
実際、発掘調査は 1986年から数度に分けて実施されたようだが、その際、陶器や石垣、古銭類が出土したそうである。特に、「土将台」付近では、旧綿竹城の城壁の盛り土が残存しており、その全敷地は東西 60m、南北 65mの規模であったことが分かっているらしい。
前漢武帝時代(紀元前 106年)、中国全土は13州制度に改変され、益州に属したこの地、益州史治として州役所が雒県(現在の 広漢市)に設置されていた。このころは、まだまだ三星堆遺跡のあった、古蜀国の都城跡の雒県の方が政治的、経済的な中心都市であったようである。
前漢滅亡後、新王朝の時代、益州は庸部と改名されるも、その行政府は引き続き、雒県に置かれた。そして、後漢王朝時代に入り、益州と広漢郡が復活するも、雒県は州役所から、広漢郡の郡役所として降格され、州役所は一時、この綿竹城に移ることになった。 しかし、後漢末期の益州牧「劉焉」はこの綿竹城から、雒県へ益州役所を再移転するも、州都たる器ではないと判断し、自身の孫「劉循」に雒城を任せ、さらに南の成都城へ引っ越す。ここから現在の 成都市 が行政の中心地として歴史に登場することになる。

後漢時代の一時期にせよ、益州全体の行政を担う中核都市であった旧綿竹城は、その後、なぜ廃止され、打ち捨てられた場所になってしまったのであろうか。これは今の現「綿陽市」との関係から読み解ける。

現「綿竹市」は、漢代には広漢郡綿竹県(旧綿竹古城が県役所)に属していたが、蜀奪取後の劉備により、統治行政区変更の改革が実施され、現「綿竹市」は、旧綿竹県城から分離された陽泉県の県役所所在地に昇格された。県役所になるぐらいだから、当時からそれなりの地方都市であったのであろう。

蜀滅亡後、この陽泉県が廃止され、再度、広漢郡綿竹県へ再編入されたようである。

三国時代を統一した晋帝国の平穏も長くはなく、旧魏領の華北を中心に長い戦乱が続くこととなり、この混乱に乗じて、当時、旧綿竹城を本拠地としていた「李特」は、華北地域から多くの難民を受け入れ、旧綿竹城の勢力は大きく膨れ上がっていたわけであるが、当時、晋国の正式な益州刺史として派遣されていた「羅尚」と対立し、益州内部で戦乱が巻き起こる。この戦いは、 1年ほどで「李特」の殺害により平定される。しかし、同年内にも、「李特」の三男「李雄」により、益州成都」は奪還され、翌304年、はれて西晋より独立を宣言、「成漢国」の成立となった(五胡十六国時代の幕開け)。この後、蜀の地は平穏な時代を迎え、反面、晋帝国は316年に滅亡、中原を放棄して、翌年、東晋帝国として江南の地へ遷都する。

その後、347年、東晋荊州刺史の桓温を派遣して、この成漢国を制圧する。そして、東晋統治下の358年、現「綿竹市」は、新しく設置された新都郡の管轄下となり、さらに398年、新都郡をさらに分割した晋熙郡が設置された際、その下の萇陽県、南武都県、晋熙県の3県のうち、晋熙県の県役所として、地方行政府に返り咲くに至る。この行政改革の中で、旧綿竹城は正式に廃城とされたものと見られる。その理由としては、晋国に反逆した「李特」一族の出身母体の地として警戒されたのであろう。また、現「綿陽市」の地理的条件自体が、西部にある異民族国家への戦力拠点として重視されたこともあろう。
そして、綿遠河の水運物流拠点は、やや南方に位置する現在の徳陽市へと集約させられていき、旧綿竹城市街は完全に役割を終えたことであろう。

現「綿竹市」の方は、このときの東晋時代の県役所機能が清末まで残り、現在の発展の礎となったようである。
黄許鎮
旧綿竹城がある黄江鎮の村は、ちょうど 徳陽市 から北の綿陽市へ向かう高速道路の入り口となっており、その高速道路の入り口付近は、三国志風情をたたずませて、観光客の目を楽しませてくれていた。壁々には、三国志の英雄たちの肖像画や名場面の数々、建物の軒先は、やや時代劇風にアレンジされていた。これを観察しながら、かつて諸葛孔明姜維劉備等も、成都~雒城~綿竹~涪城~剣閣~漢中へと往来したあろう綿遠江の川橋を渡って帰途につく。水量がとても少ない。

旧綿竹城の 三国志エピソード として、先の蜀末期の話とともに、蜀成立期の話もついてに触れておきたい。
213年、劉璋と敵対関係に入った劉備が蜀奪取へ進軍する際、漢中側より南下し、北側に位置する涪城(以下の 綿陽市)~綿竹城~雒城(今の 広漢市)~成都城を目指したわけであるが、ちょうど涪城から綿竹城へと至る山々の峠(ここも白馬関である)にて、軍師「龐統」が流れ矢で死亡し、この白馬関の地にて葬られている。所謂、落龐坡とはこの地であり、龐统廟としての墓所がある。

劉璋の勇将「張任」は最前線の涪城での防衛戦に失敗し、いったんこの旧綿竹城へ撤退した。そして、ここで城主の李厳を残して、張任の残兵らは更に南の雒城(今の広漢市)まで引き上げさせたとみられる(綿遠江沿いに船で)。この城を李厳に任せて時間稼ぎしている間に、防衛戦線の立て直しを進めようとしたのであろうか。
あわせて、綿竹城の前線にあたる山間道である白馬関の峠付近で伏兵を潜ませ、劉備軍の先方隊を遅らせる作戦を取ったのであろう。そして、軍師「龐統」が戦死。張任らは、劉備軍の進軍を遅らせることに成功し、さらに南側の雒城にて迎撃態勢を整えた、と考えられる。しかし、旧綿竹城主であった李厳はすぐに劉備に降伏してしまう。また、劉循張任らが守る雒城も劉備軍に包囲され、張任は城外へ誘い出された際、劉備軍により捕縛される。結局、劉備の軍門に下ることを拒否し斬首され、手厚く葬られたという。その張任墓が今でも 広漢市 に残されている。
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