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成都市の歴史

今から4500年前の宝墩古城と呼ばれる新石器時代の集落群が、現在の成都市新津県にて発見されている。この環濠集落は、横 2000m、縦 1500m、周囲の長さ 6200m、総面積 276万平方mにもなる巨大な楕円形のものであったという。ちょうど、サッカーフィールド 386個分に相当する広さであったらしい。新石器時代から、もう既に中国はスケールが大きい。
これまで、成都平原では、このような環濠集落が8箇所発見されているという。新津宝墩古城、郫県古城、温江魚鳧城、都江堰芒城(上芒城)、崇州双河古城(下芒城)、紫竹古城、大邑塩店古城、高山古城である。
このころの成都平原での古代集落文化は、宝墩文化(紀元前2700~1800年)と呼ばれている。その一つが、三星堆遺跡に代表される三星堆文化(紀元前1800~1200年)であった。この三星堆遺跡こそが、古蜀国の都城でもあったらしい。紀元前 5世紀中葉に、古蜀国の開明王朝九世によっては、都が広都樊郷(現在の双流)から、成都の地へ遷都される。これが現在の成都城の始まりとなる。「成都」とは、当時の成都平原の言語で、「終の都」という意味の造語であるという。

成都

そして紀元前316年、秦が巴国、蜀国を滅亡させた後、漢民族の大量移民政策がとられ、これら成都平原の独自文化は消え去っていくこととなった。あわせて、秦国より派遣された蜀郡太守の李冰は、この地の治水事業に乗り出した(中国史上初の大工事)。これが有名な、都江堰と呼ばれる灌漑遺跡である。彼の次男の治世になってようやく完成され、当時、李次郎坊と呼ばれた次男にちなんで、二郎廟がたくさん四川省内に設置されていくことになる(治水の神様)。
秦末前漢初期には、成都平原は戦乱で荒廃する中原地帯に代わって、重要な食料生産を担う「天府の地」と称される、豊かな土地になっていく。もしくは、綿産業も発達し、この地は錦城とも呼ばれたという。成都はすでに秦代、前漢時代には中国でも6大都市(長安、洛陽、邯郸、臨洮、宛、成都)の一つに数えられるほどに巨大化していたらしい(人口40万)。
前漢時代の141年、蜀郡太守の文翁によって、中国初の地方官養成学校である文翁石室が、この地に設けられている。また、前後漢の時代を通し、中国の漆器工芸品の生産でも有名となり、中国の飲茶文化の発祥の地とされている。

前漢武帝時代(紀元前 106年)、中国全土は13州制度に改変され、益州に属したこの地、益州史治として州役所が雒県(現在の広漢市)に設置された。このころは、まだまだ三星堆遺跡のあった、古蜀国の都城跡の雒県の方が政治的、経済的な中心都市であったようである。
前漢滅亡後、新王朝の時代、益州は庸部と改名されるも、その行政府は引き続き、雒県に置かれた。そして、後漢王朝時代に入り、益州と広漢郡が復活するも、雒県は州役所から、広漢郡の郡役所として降格され、州役所は一時、綿竹城に移ることになった。
しかし、後漢末期の益州牧「劉焉」はこの綿竹城から、雒県へ益州役所を再移転するも、州都たる器ではないと判断し、自身の孫「劉循」に雒城を任せ、さらに南の成都城へ引っ越す。ここから現在の成都市が行政の中心地として歴史に登場することになる。

つまり、成都が本当に行政都市としてその地位を確立できたのは、後漢末の三国時代からであった。そして、劉焉の末子「劉璋」統治時代の214年夏、劉備に降伏し、この地で221年、劉備蜀漢を建国することになる。263年の魏の侵攻時、二代目皇帝の劉禅が、成都城を無血開城することで蜀漢は滅亡する。
翌年264年正月15日に、蜀の降将「姜維」は鍾会とともに、反魏の決起を行うも、将兵らに反発され、この宮殿内で刺殺されている。これと同時に、そのトバッチリを食うかのように、張翼廖化関羽の遺族らが殺害された。

その後も、五胡十六国時代の成漢の李雄が成都城を王都と定めるなど、四川省での歴史的イベントで成都は外せない場所となっていく。

唐の時代、成都の経済力はますます高まり、文化は栄え、中国でも4大都市(長安、楊州、成都、太原)の一つに挙げられるまでになっていた。唐の太宗の後半期、中原の反乱により、皇帝はこの地に避難し、成都府として仮の都とまで指定している。 907年には唐も滅亡し、後梁王朝が建国される。後に建国される前蜀国、後蜀国も含め、成都がやはり都に定められている。しかし、五代十国時代の軍備拡張時代、蜀の国土は荒れていくことになる。

宋による中国統一後は、急速に回復を遂げ、全国有数の大都市に返り咲く。しかし、南宋時代の1257年、モンゴル軍により成都は占領される。
その後、元を北へ退けた明王朝は、中国統一を目指し、当時、蜀に建国されていた大夏国へ侵攻する。すぐに夏国は降伏し、再び、太平の世に戻ることとなった。朱元璋は、自身の子を蜀王として中央政府直轄地の成都府へ派遣している。

明末の戦乱期の1644年、張献忠の率いる白蓮教軍が成都(西京と改名する)へ入城し、国号を大西として、独立国を建国する。しかし、四川省内の豪族らの反乱が頻発し、戦乱と虐殺が続くことになった。総人口が 1割近くまで激減してしまう。
この後、中国全土を平定した清王朝により、湖北省湖南省広東省からの移民政策が実施され、100年かけて四川省復興が進められることになった。
しかし、1863年太平天国の乱の折、4大王の一つ「翼王」に封じられた石達開(1831~1863年)が四川省内の清軍拠点を攻撃し、この地は再び戦火の被害を受ける。清軍は重慶城を落とされるも、成都城は守りきることに成功する。しかし、1911年6月、反清運動が成都で勃発し、清軍の四川駐留軍が武力鎮圧に乗り出す中、人々の怒りは頂点に達し、ついに辛亥革命へとつながっていくことになる。その後、軍閥割拠の時代を迎え、1914年、新政府の中華民国により平定される。

成都

この地も、現在はかつての成都府城として繁栄した巨大城郭都市の古城壁はすべて撤去されていしまっているが、その規模が分かる堀川はほぼ原型をとどめて残されている。また、旧市街区の路地に数多くの名残が残る。北大街、北門大橋、正府街(かつての行政府跡)、東城根街、西府南街、馬棚街、紅壁巷、西華門街、東華門街、御河沿街、順城大街、東打銅街、鼓楼街、東馬道街、関廟街などなど、非常に多い。
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九寨溝と黄龍旅行記

成都から九寨溝

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九寨溝へ行くために、宿からタクシーでバスセンターへ移動し、片道121元(1,880円)の成都から九寨溝行きのバスに乗った。朝8時に成都を出発したバスは、10時間後の夕方18時に九寨溝に到着する予定だ。混雑した成都市内を抜けて世界遺産の都江堰を過ぎるとバスは深い山道を走るようになった。
成都のある四川盆地(標高400m)の西側には、標高5,000mから7,500mの山々がチベット高原まで続いていて、隣接した盆地と山地の標高差が世界で最も大きい。九寨溝へ向かうバスは、そんなダイナミックな渓谷を進む。
成都から九寨溝 バス
バスは途中、食事やトイレ休憩のために何度か停車する。飯店のトイレは、1回5角(8円)で利用するが、このトイレが俗に言うニイハオトイレだった。男は、小の時は壁に一列になってひっかけるだけだが、問題は大のときだ。前後とつながっている足元の溝をまたぐようにして用を足す。前後で同じようにしゃがんでいる人との間には、腰くらいまでの高さの仕切りがあるだけなので、まわりから丸見えの状態だ。大変なのは女性で女子トイレではニイハオの連続だそうだ。北京市内では来年のオリンピックに向けてニイハオトイレの根絶に力を入れているらしい。
チャン族の家
出発してから7時間半、最初の2時間以外はずっと山道を走っている。九寨溝への道は、土砂崩れで道路が半分塞がっていたり、崖から落ちる滝のような水が道路に流れ込んでいたりするので、通行が困難な箇所が多い。ポテトチップスの袋がパンパンに膨れるほど標高が高くなったこの辺りは、四川省アバ・チベット族チャン族自治州で、その名の通りチベット族とチャン族が多く住んでいる。
白いヤク
バスが昔ながらの生活を営む小さな村々を通り過ぎるようになると、トイレ休憩の場に観光客向けのヤクが現れる。いくらで乗れるのか尋ねると5元(78円)という。景色の良い場所で白いヤクに乗れた動物好きのマイコは嬉しそうだった。
成都から九寨溝へ向かう車窓の景色
バスが九寨溝に近づくと、標高4,000~5,000m級の山々が車窓から見えるようになった。3,380mの峠を越えたバスは、日光のいろは坂のようなヘアピンを車体を傾けながら駆け抜け、予定より2時間遅れの20時に九寨溝のバスターミナルに到着した。しかし、これほど奥地に来るとは想像を超えていた。中国は広いのに北京時間しかないので、九寨溝は20時でもまだ空が明るい。
九寨溝のホテル
九寨溝で泊まるホテルを決めていなかったのでバスターミナルにいたホテルの客引きと電卓で値段交渉し、飯店を併設したホテルのダブルに100元(1,560円)でチェックインした。
九寨溝の街
朝6時に起きると部屋の中でも息が白く、真夏だというのにベッドから出たくないほど寒かった。九寨溝は夏に雨が多いようなので、天気が悪ければ晴れを待つつもりだったが、朝の空は少し曇ってはいるものの雨の心配はなさそうだ。ホテルから九寨溝の入り口まで1kmほど歩いて向かった。
九寨溝(キュウサイコウ)は、中国語読みでジウジャイゴウ。九寨溝という名前は、渓谷(溝)の周りに九つのチベット族の村(山寨)があることに由来しているそうだ。緑豊かな山奥の3つの渓谷に100を超えるの海子(ハイズ)や湖が点在する中国屈指の景勝地で、標高2,000mの入り口から最深部の3,000mあたりまで広がっている。
中国の物価に対して九寨溝の入場料は高く、チケット代が220元、グリーンバスのチケットが90元、合わせて310元(4,800円)だ。購入時に申告するとチケットに写真がプリントされ二日間有効になる。
原始森林
朝8時に九寨溝に入り、グリーンバスで原始森林地区(3,400m)まで移動した。朝の凜とした空気と静けさのなか歩くのは清々しい。朽ちた大木は苔むし、木陰にはリスの姿もあった。
九寨溝
テンションが上がってきたところだったが、ゴロゴロと巨大な雷鳴が鳴り響き、冷たい雨が降りだした。この旅で初めて雨具を羽織って歩いたが、日差しがなくなると気温も下がり、歯がガチガチ震えるほど寒くなった。その後、2時間ほど雨宿りをしていると天気は回復し次第に青空が広がった。
九寨溝の鏡のような湖面
鏡のような湖面に木々が映り込む光景は、息を呑むほどに美しい。岷山山脈の石灰岩から溶け出した成分が湖底に沈殿し、青やコバルトブルー、乳白色など太陽の光で様々な色を放つそうだ。
九寨溝 九寨溝の魚
透き通った湖水には、たくさんの魚が泳いでいたが、九寨溝にはこの一種類しか生息していないそうだ。外界との接点がないのはわかるが、魚にとってよほど特殊な環境なのだろうか。
九寨溝
太陽の光の当たり方によってブルーからグリーンまで不思議な色彩に染まる。
九寨溝にかかる虹 珍珠灘瀑布
九寨溝は、総延長50kmに達する3つの渓谷が5つのエリアに別れていて、100以上の湖沼や渓流、大小17の滝が点在する。湖の水はいくつもの滝を流れ落ちながら下の湖に注いでいる。昼過ぎには軽く汗ばむほどになっていたので、滝のまわりに立つと水しぶきが気持ちいい。
九寨溝
主要な湖や滝だけをバスで移動すれば手取り早いが、二日間あるのでバスはできるだけ使わずに歩いて景色を楽しんだ。
九寨溝
夕方、短い雨の後、九寨溝の谷に虹が架かった。僕らが道路の真ん中に突っ立って虹を見ていると、巡回中の公安パトカーが近くに停車したので注意されるのかと思ったら、公安もケータイで虹の写真を撮っていた。
九寨溝の食事
九寨溝には弁当など食料の持ち込みが禁止されているため、朝から一日歩いて腹ペコだった。晩飯はホテル近くの飯店で食べる。中国に入ってからどこで食べても本当に美味しいので、毎日食事の時間が楽しい。日本でも一般的な麻婆豆腐、回鍋肉、青椒肉絲は中国でも鉄板だ。四川風の激辛が苦手なので注文するときは不要辣椒(ブーヤオラージャオ)と言って辛さを抑えてもらっている。
九寨溝 二日目
2007-07-28九寨溝 長海
朝は昨日のように曇っていたが、九寨溝に入った10時ごろには青空が広がった。入口からバスに乗って九寨溝の最も奥まったところにある長海という場所へ向かった。長海は標高3,100mにある九寨溝最大の海子で氷河の侵食によって生まれた氷河湖。ダイナミックな周囲の山々がブルーの湖面に映る様が素晴らしい。奥に見える山は標高4,740mにもなるそうだ。
九寨溝 五彩海 九寨溝のカモ
太陽が真上まで昇ると、寨溝で一番美しいとされている五彩池は奇跡的な色になっていた。じっと眺めていると水の中に飛び込みたくなるような衝動に駆られる。風でキラキラ波打つ湖面にカモが泳いでいた。鳥にもこの色は見えているのだろうか。
九寨溝 瀑布 九寨溝の蜂と蝶
僕らが訪れた九寨溝は周囲の山々に緑が生い茂る短い夏の九寨溝だったが、新緑の春、木々が紅葉する秋、雪化粧に覆われ滝が凍りつく冬など、四季折々の景色を楽しむことができるそうだ。
九寨溝 火花海
九寨溝火花海。その奥には今もチベット族が住む集落が見える。中国政府が自然保護区に指定するまでは、九寨溝でも無計画な森林伐採が行われ、数多く生息していたジャイアントパンダもわずかしか残っていないそうだ。この地に生まれ育つチベット族は、年間に何百万人と訪れる僕ら観光客が整備された遊歩道を歩くのをどう思っているのだろう。いつまでもこの自然が残ることを祈るばかりだ。
九寨溝から松潘へ
2007-07-31松潘
九寨溝からバスで岷江沿いを120kmほど南下し、松潘に到着した。松潘は2,300年以上前から王朝と辺境の地を結ぶ交易の町として栄えた古都。四方を山に囲まれた標高2,700mの高地にあるため、夏でも朝晩の気温が5℃近くまで冷え込み、日中も20℃までしか上がらない。松潘は、日本語読みで松潘はショウハンだが、中国語読みではソンパン、チベット族にはスンチュと呼ばれている。
松潘 明徳旅館
松潘に到着し、客引きの女性に連れられてバスターミナルの前にある明徳旅館という宿にチェックイン。トイレ・シャワー、TV付きで90元(1,400円)だった。宿の女性は言葉が通じなかったが、常に笑顔で接してくれて、寒いからと暖かいお茶を用意してくれたり、黄龍に行くことを片言の中国語で伝えると、黄龍観光のパンフレットを持ってきてくれたりと親切な人だった。
松潘 四川料理
この宿は、松潘の街道沿いにあるので、窓から家畜を連れて歩く行商や、大きなヤクを荷台に満載に積んだトラックなど行き交う人々を眺めることができた。今も昔も変わらない交易の町といったところか。
松潘
今日から8月だというのによく冷える。窓からは松潘を囲む緩やかな山の景色が一望できたが季節は冬のようだ。前の通りは、今朝もバイクやトラックなどの往来が激しい。
松潘には、黄龍へ日帰りで行くための拠点として訪れたが、すれ違う人の顔や服装から異国情緒が漂っていて、面白そうな町なので黄龍へ行った後にもう1度ゆっくり見て回る日を作ろうと思った。明日は夜明け前に黄龍行きのバスに乗るため、早めに夕食を終えて宿に戻った。
黄龍
松潘から黄龍へ 雪宝頂
朝4:30に起きて支度をし、宿の前のバスターミナルから黄龍行きのバス(24元)に乗り込んだ。松潘から黄龍までは2時間弱の道のりだ。
バスは途中、標高3,840mの峠を超える。この道は冬になると雪に閉ざされるため、通行できなくなるそう。朝日に照らされた山肌でヤクの群れが草を食み、背後に岷山山脈の最高峰、雪宝頂(5,588m)がそびえていた。雪宝頂は、その名の通り真夏でも山頂に白い雪を抱くチベットの聖山。
黄龍
バスは1時間半後に黄龍に到着した。黄龍の景観と歴史地域として世界遺産に登録されている黄龍は、岷山山脈の玉翠山から伸びる渓谷、黄龍溝沿いに広がる景勝地黄龍は、日本語読みでコウリュウだが、中国語読みだとホワンロン、チベット族にはセルツォと呼ばれる。開門時間の朝8時まで時間があったので近くの飯屋で朝食をとる。熱々の水餃子で冷えた体が温まった。
黄龍
黄龍に入ったら後はひたすら歩いて登るだけ。目指すは黄龍で最も美しいとされる五彩池で、入口から約4kmの道のりだ。九寨溝は入口が標高2,000mだったのに対し、黄龍は入口で標高3,200mを越えているので酸素が薄い。ツアーで低地から飛行機で黄龍に来た場合、高山病で苦しむことが多いらしく、黄龍の中には酸素を吸える休憩所が用意されていたり、携帯酸素が売られていた。
黄龍と玉翠峰
黄龍の峡谷には、桟橋が巡らされていて、周囲に段々畑のように石灰華段が連なる。桟橋を登っていくと、視界に玉翠峰(5,160m)の険しい山肌も目に入るようになる。
黄龍の中寺
途中、明の時代に建立された中寺という仏教寺院があった。中には巨大なマニ車があり、ご利益のありそうな佇まいだった。
黄龍
ビューポイントや途中の寺で休憩を挟みながら谷間を登り、入口から3時間で五彩池に到着した。
黄龍
黄龍九寨溝と同じく岷山山脈の石灰岩から溶け出した炭酸カルシウムが大量に含まれている。それが湖底に乳白色の結晶体として沈殿し、大小併せて3,400ものエメラルドグリーンの池を作り出しているそうだ。
黄龍
九寨溝でも素晴らしい景色をたくさん見たが、桃源郷という言葉は、黄龍のほうが合っているように思う。それくらい黄龍の景色は俗世離れしていた。黄龍という名前は、上から見ると一匹の龍が山を登っているように見えることから名づけられたそうだ。
黄龍
帰りはロープウェイで一気に谷を降りた。登り道は大変だったので最初にロープウェイで五彩池まで行って、下りを歩けばよかったかもしれない。天候にも恵まれて素晴らしい景色を見ることができた。
松潘観光
2007-08-03松潘
成都に戻るのを一日遅らせて、松潘を一日かけて観光することにした。松潘は、町の中心部が高い城壁に囲まれている。城という漢字は、元々は城壁を指していたそうだが、後になって城壁の内側もまとめて表すようになったとか。
松潘
城壁の周囲には、昔ながらの家々が建ち並び、昔の日本と同じような景観が広がっている。僕の生まれ故郷、三重県伊勢市にも似たような古い家屋を見ることが出来るのでどこか懐かしさを感じた。
松潘
町の西のはずれにある屋根付きの立派な橋を渡り、山の崖に建てられた観音閣という寺院から丘の上にある農村に訪れることができた。
村には電気こそ通っているものの人々の生活は素朴で、家の周りには食用の豚や鳥が飼われている。松潘は辺境貿易で栄え2,300年の歴史があるということだが、本格的に町が作られたのは明の時代になってから。日本でいう室町~安土・桃山時代に作られた古い家屋が今も部分的に残っていて歴史の匂いがする。
松潘
山をさらに登ると松潘の町と周囲の山々を見渡すことができた。ラオスルアンパバーンでも同じように小高い山の上から町を見渡すことができたが、その時とはまた違ったいかにも中国の山あいの町といった素晴らしい眺めだった。

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成都旅行記

成都は、日本語読みでせいとだが、中国語読みではチョンドゥ(チョントゥ)と読む。人口1,000万人を越える成都は、四川省省都であり政治や経済の中心。西南地区最大の交通の要衝でもある。物産が豊富なため、古くから天府の国(自然に恵まれた国)と呼ばれているそうだ。

成都は、三国時代劉備玄徳が蜀の都を置き、諸葛孔明と共に活躍した地として良く知られている。僕は子供の頃に横山光輝三国志を読みふけり、初代ファミコン天地を喰らうシリーズが好きだったので、成都にある劉備孔明を祀った武候祀博物館は是非訪れたい。

成都を拠点に九寨溝などに行き、その後チベットのラサへ向かおうと考えているが、昨年開通したラサへの青蔵鉄道は、シーズン中はチケットの入手が難しく、宿のツアーデスクでも青蔵鉄道の取り扱いを9月まで中止していた。僕は以前から青蔵鉄道チベットへ行きたいと思っていたので残念だった。

成都
2007-07-26成都 文殊院
移動の疲れもあり、今日は昼過ぎまで寝ていた。夕方、南北朝時代(5~6世紀)に建てられた仏教寺院文殊院を中心とした観光エリアになっているので行ってみた。

成都 文殊院
石畳で整備された文殊院周辺は、再建された茶館や土産物屋が軒を連ねていて観光客を集めている。

夜の文殊院
昼間はうだるような暑さなので、日が暮れてからの方が町は賑やかだ。成都は高層ビルが立ち並ぶ大都市だが、文殊院周辺は雰囲気がいい。食べ歩きをしながら宿に戻った。

成都の繁華街
2007-07-27成都 旅游バスセンター
明日から九寨溝へ行くのでバスセンターまでタクシーに乗ってチケットを買いに行った。成都から九寨溝まで片道10時間のバスのチケットは、121元(1,880円)だった。

成都 繁華街
九寨溝は、標高が高いので真夏でも朝晩はかなり冷え込むそうだ。防寒具を持っていない友人Kの上着を買うため成都の繁華街へ。土曜の夕方ということもあって多くの買い物客で賑わっていた。

成都には、イトーヨーカドー伊勢丹など日本のデパートが進出している。イトーヨーカドーの地下の食料品売り場へ行ってみると、ものすごい数の人がひしめきあいながら買い物をしていて圧巻だった。ただ混雑しているだけならまだいいが、我先にと声をあげながら買い物をしていて、それはもう凄まじい光景だった。駅の切符売り場でも順番待ちをしないので同じような状態だったが、こっちでいう高級デパートでもこの様子だから、これは国民性なんだろうと思う。
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川劇変面吐火ショー 地方劇


川劇変面吐火ショー 地方劇
川劇(せんげき)は四川省の地方の庶民の伝統芸能であり、2006年に中国の非物質文化遺産に指定されました。成都が古くから「劇の郷」と呼ばれていた事もあり、唐の時代から既に「蜀の劇は天下に冠たる」というふうにが伝えられてきました。

川劇の最も大きな特徴は何と言っても摩訶不思議な「変臉(変面)」です。役者が顔に手を当てると瞬時に隈取りが変わり、瞬く間に何種類もの表情を切り替えていく様子は人々を驚愕させます。出し物は瞬時に瞼譜(隈取)を変える技巧で有名な変面を始め、ほかにも火をつけた皿を頭にのせたまま動く「頂燈」、消えたろうそくの火を瞬時に灯したり、口から炎を吐き出す「吐炎」、出し物の内容は雑技や巧みな影絵、 舞踊、マリオネット、寸劇などバラエティに富んだ演目が目白押しです。息つく間もなく次々と変わるマスク(変面)や三国演義 の代表的な物語を題材にした演目、火噴きなどなど 見るものの目を引き付けて離させません。

成都三国志の蜀の国で、シャンシャンゆかりの地で、九寨溝チベット楽山大仏峨眉山重慶大足石刻雲南昆明麗江や大理やシャングリラなどの中国西南地方の名勝地に近くて、中国旅行の不可欠な観光都市でございます。成都旅行時、川劇変面ショーも不可欠だとよく評価されています。

成都には川劇変面ショーの劇場が以前、錦江劇場と呼ばれた芙蓉国粋や蜀風雅韵劇場や色々ありますが、劇場によって、座席によって、平日と週末によって、料金がそれぞれ違いますので、ご興味のある方はご要望を聞かせ、弊社の担当者と打ち合わせてください。川劇(せんげき)は四川省の地方の庶民の伝統芸能であり、2006年に中国の非物質文化遺産に指定されました。成都が古くから「劇の郷」と呼ばれていた事もあり、唐の時代から既に「蜀の劇は天下に冠たる」というふうにが伝えられてきました。

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四川料理成都グルメ

四川料理 四川火鍋
四川料理は、一般には唐辛子や花椒(山椒の同属異種)などの香辛料を効かせる辛い中華料理として知られます。四川省の中でも成都を本場とします。四川料理は中国各地に専門店が存在しており、「正真正銘・正統派の四川料理」という意味の「正宗川味」という看板をよく見かけます。
四川料理 宮保鷄丁
酸(酸味)・辣(辛味)・麻(しびれ)・苦(苦味)・甜(甘味)・香(香り)・鹹(塩味)の7つの味で成り立つことで知られます。特に痺れるような辛さを意味する「麻辣」(マーラーmálà)を味の特徴にしており、中国の他の地方の料理に比べて香辛料を多用しています。
タンタン麵
これは四川省重慶市の湿度が高く夏と冬の寒暖の差の大きい気候が関係しているとされます。これとは逆に、宴会料理では、砂糖を大量に使った極端に甘い料理や箸休めが出されることもあります。
夫婦肺片 四川料理
内陸という地域性を反映して海産品を食材として使うことは少なく、野菜、鳥獣肉、穀類を主体としていますが、近年は冷凍食品も普及していることから、海産食材も取り入れられています。
四川火鍋
成都を本場とする四川料理の代表的な料理はマーポー豆腐、夫婦肺片、宮保鷄肉、タンタン麵、火鍋料理などなどあります。四川料理の老舗は陳麻婆豆腐本店や成都老火鍋などあります。
四川料理 陳麻婆豆腐 担々麺
四川料理(しせんりょうり)は、中国四川省の郷土料理で、重慶市雲南省貴州省などの周辺地域をも含めた、共通する特徴をもつ郷土料理の系統を指します。中国での一般的な呼称は「川菜」と呼ばれ、中国四川省省都成都から発達した料理で、成都菜を正統とします。四川料理は中国三大料理の一つで、味つけは、酸 (すっぱ味) 、辣 (刺激的辛味) 、麻 (ぴりっとしまった味) 、香 (香り) が基本となり、苦 (苦味) 、甜 (甘味) 、鹹 (塩辛味) を加えた独特なもので、一番庶民に愛されていてます。
四川料理は真っ赤に染まった激辛メニューが多く、麻婆豆腐、担々麺、回鍋肉(ホイコーロー)、よだれ鶏、これら誰でも知ってる四川料理の代表的なものです。
麻婆豆腐(マーポートウフー)は豆腐とひき肉・ネギなどを、唐辛子・豆板醤・花椒などを入れて炒め煮したもので、唐辛子の辛さよりも山椒のしびれるような辛さ が特徴です。
担々麺(タンタン面)はゆでた中華麺に、すりごま・ラー油などを入れた辛みの強いスープをかけたもので、昔、担いで売り歩いたことから名付けられました。
回鍋肉(ホイコーロー)は豚バラ肉とキャベツ、長ネギなどを炒(いた)め合わせ、豆板醤と甜麺醤とで味を付けたもので、ホイコウロウとも言われます。
よだれ鶏は中国語で口水鶏と言い、蒸した鶏肉に豆板醤やラー油がピリッと辛い ソースをかけたものです。
成都訪問の際、是非とも100年以上の老舗、本店の『陳麻婆豆腐』で、本場麻婆豆腐や、2012、2013の期間、取材した中で一番おいしかったのは「無名包子」の肉まんや、TV取材も来る隠れた名店「洞子口張老二」の凉粉や、500杯食べた著者が選んだイチオシの激辛面屋「純陽館」の担々麺や、成都で一番人気の「干鍋」や「鍋鍋香」などなど一度ご賞味いただきたいと思います。

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中国四川 蜀南竹海

蜀南竹海 中国四川宜賓名所
蜀南竹海は中国四川省成都市の南約300キロ、宜賓市にある自然保護区で、四川省屈指の竹林として知られます。「蜀南竹海」の名は、宋代の詩人・黄庭堅の詩に由来し、面積120㎢の風景区内に、孟宗竹よりやや太い「楠竹」など58種の竹が生えています。青々とした若竹の4月中旬〜9月に竹林を散歩すると、すがすがしい気分になれます。また夏でも30℃以上にならないことから、避暑地としても最適です。
忘憂谷:中国では最も名高いところです。道の両側には「楠竹」という「孟宗竹」よりやや太目の竹の林が続いています。散歩すると、すがすがしいで空気を深呼吸、浮き世を離れた別天地のようで癒されます。
四川宜賓市蜀南竹海
仙寓洞:駐車場から10分ほど階段を下った切り立った崖に造らています。寺の中には南宋時代に造られた石仏が残っています。古い仏像の脇には1980年に造られた大仏と1997年に造られた観音像、1994年に造られた涅槃像が並んでいます。
避暑聖地の蜀南竹海
海中海:海中海は翡翠長廊から仙寓洞景観区へ向かう道の左側にあり、竹海の中で出来た湖で、「海中海」と名づけられました。湖の周囲は遊歩道で、一周巡って楽しむことが出来ます。遠くから眺めると湖面に浮かぶ小島が湖を分割しているように見え、竹林の中にたたずむ姿は非常に神秘的です。
四川景勝地 蜀南竹海
七彩飛瀑:落差が約100メートルあり、迫力があります。
七彩飛瀑
蜀南竹海の入場料金は117元です。中国四川旅行時、是非、どうぞ避暑聖地の蜀南竹海へお越しください。

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成都現地発楽山大仏観光

楽山大仏世界最大の石刻大仏
楽山大仏
楽山大仏(らくざんだいぶつ)は中国・四川省楽山市にある弥勒菩薩を象って彫られた巨大な磨崖仏(石仏)で、石窟寺院の一種です。峨眉山地域内の長江の支流、岷江(びんこう)、大渡河、青衣江が合流する地点にあります。
らくざんだいぶつ
近代以前に造られたものでは世界最大・最長の仏像であり、石像です。顔は100畳分、岩山を掘り、90年かけて造られました。高さは71メートルで、東大寺の大仏の5倍にも及びます。当時、多くの大仏が国家によって造られたのに対して、楽山大仏は民衆の力で作られました。
四川楽山磨崖仏(石仏)
1996年、「峨眉山と楽山大仏」として、近隣にある峨眉山とともにユネスコ世界遺産に登録されています。
峨眉山から約40 km離れた岷江と大渡河、青衣江の合流地付近、河の氾濫や水難事故を鎮める目的で、713 年の着工から約90 年の歳月をかけて建てられた。高さは約71mあり、世界で最も高い石刻大仏といわれている。楽山大仏開鑿の歴史的功績は中国の仏教文化の隆盛に貢献しただけでなく、流れが複雑で水の事故が絶えなかった3本の川の流れを調節する水利工事を築き上げ、地元の住民に利をもたらしたことにあります。
四川芭石鉄道嘉陽蒸気機関車
芭石鉄道 蒸気機関車 嘉陽小火車
「嘉陽小火車」は四川省成都から南へ約200キロメートルほどのところにあります。「嘉陽小火車」までは、楽山、犍为と南下して、観光の拠点となる嘉陽に向かうことになります。成都から楽山へ行き、中国でも屈指の観光名所、圧卷の楽山大仏世界遺産)を見学し、楽山に一泊し、翌日、蒸気機関車乗車体験後、成都市内に戻るプランが最適だと思います。
世界で最後の旅客を運ぶ現役の蒸気機関車と言われる芭石鉄路の嘉陽小火車は1959年に開通し、 石溪站と黄村井站を結ぶ全長19.84km、軌道幅762mmのナローゲージ蒸気機関車 牽引の鉄道です。世界唯一の全日運転のSL鉄道です。一日に4本、石溪站始発6時・9時 30分・14時・17時30分で、終点黄村井站折り返しで、往復所要時間2時間半です。
中国人のお客様も外国人のお客様もそんな中国の農村を走る昔ながらの蒸気機関車を見に行ったり、乗車体験したりして、「嘉陽」や「犍為」の町も何でもないですが、蒸気機関車があるがゆえに一躍有名になってしまいました。駅などの設備は奇麗に整備され、観光案内所まで建てられています。

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川劇変臉

芙蓉国粋~成都川劇錦江劇場
川劇 (せんげき)とは、中国四川省伝統芸能のことで、京劇と似た様式で行われる演劇です。変臉(変面のこと、瞬時に隈取を変える技巧)で有名です。
川劇変臉
役者が顔に手を当てる瞬間に瞼譜が変わるというもので、マスクを一瞬のうちに変えて怒りや恐れ、絶望などの喜怒哀楽を表現する技法です。
変面ショー
これは布の仮面を使用しているとされますが、どのような仕組みかは「一子相伝」の「秘伝」とされます。中国では第1級国家秘密として守られています。
四川伝統芸能変臉
川劇の劇場は色々ありますが、岷江飯店近くの錦江劇場『芙蓉国粋』がお勧めです。毎日20:00~21:20は演出していますので、成都訪問時、是非、ご来店いただき、特技の川劇変面ショーを鑑賞にお越しください。
2300年以上の歴史を持った成都市は古い雰囲気が濃厚です。地方特色のあるドラ マ--川劇は吹灯、転灯、噴火、変面という四の絶技があります。
吹灯と転灯の由来は、成都の男性が大抵女房に弱いのです。ある夫はマージャン をして、家に帰る時間は遅いで、女房はとても怒っていて、夫を懲らしめた方法 です。女房は燃えている蝋燭を夫の脳天に入れて、夫が吹かさせ、難しさが大き いです。夫は絶技をやって、蝋燭が動いて、結果、吹いた動作です。
噴火と変面の由来は、これです。天気は変りやすいで、古代の祖先がわからなっ かので、豊作を祈りした儀式でした。噴火の絶技は、凄まじい火が男優の口から 噴出するのです。一番見所は変面です。出演者は手を振ると、顔が変って、何回 も振ると、何回も変りました。くま取は中国の歴史上のいろいろな人物の顔す 。秘密がわからないな、不思議です。 演出の中、お茶の茶芸と民族踊りと楽器と人形芝居と手品などのイベントもあり 、素晴らしいです。
蜀 風 雅 韻
蜀風雅韻はかつて1か所に集まった川劇名優の役者会館で、ここ数年来再び川内の名優に集まって、毎晩、経典の伝統的な川劇と民間の卓絶した技芸の出演を出す。評判は盛り上るだけではなくて、海内外メディアが相を争って報道された。またたく間に、更に演劇界の風采に昔再現させて、伝統の子音と母音は余韻が残られた。変面、噴火、滾灯は中華に名をはせて、操り人形は技巧が精妙で、娘の音はきめこまかくて、言葉では説明できない。七弦琴を聞いて、知らず知らず夢の三国にこられた。跡を絶った多年年の手影絵芝居は、芸術の宝が民間に戻り、太鼓をまじえた音楽が一斉に鳴り響いて喜楽は無限である。
蜀風雅韻は志を高く持って、パ蜀の演芸と民間絶技を復興にして、散った大衆演芸文化に茶館で色彩を再現させて、特技を抱く名優か名家を民間に帰らせて、絶技が伝わられる。今日、蜀風雅韻はすでに名優名家の1か所に集まる民間文化会館になって、素人俳優愛者が成都によく往来する駐在地である。
番組順序
1、茶芸の演出
四川の茶屋たくさん、自分の風格を形成した。茶芸の出演はとても特色がある。
2、騒台
地元特色の演出。各種の楽器は同時に舞台に出て演出して、とてもにぎやかで、演奏者の技と力は深い。
3、川劇経典の折子芝居
川劇の中、いくつか経典の第1幕。すべて四川の普通の庶民の生活の中で精選してくるのである。
4、胡弓独奏
諸般の胡弓は演奏して、演奏者が出演するのは巧みで完璧である。
5、杖人形演出
四川の杖人形は年代が古いことを演出して、特技の繁は回復して妙技は繁雑で、人に感嘆させることを演出する。
6、蜀韵リズム
四川の語りと歌を含んだ演芸は形が変わっていて美しい。ものまねに類似して、パ蜀民間の生活の于芸術の出演に集まる。
7、川劇経典戯曲
芝居経典の第2幕。川劇の出演の精華のありか、1種の独特な歌、最も川劇の魅力が現れられる。
8、チャルメラ独奏とカ芝居
中国チャルメラが演奏する名曲。カロリー芝居は四川北西地元民の演出の絶が活きていることです。
9、川劇の折子芝居-滾灯
四川劇中の代表の一つをとして、、四川の伝統は夫が妻に弱いので、敷かれることで、派生する出て来た人の戯。
10、手影絵の芝居
芝居は手によって出て来た1種の形が変わっていて美しい創造された芸術形式で、唯妙な唯肖を演出して、人に幻覚を生じる。
11、四川劇のピックー変面と噴火
四川劇中が一番有名な変面で、最初の意味は古代の天気が変りやさいので、農民豊作に影響することで、人々の生活を変えた。そして、天気の顔が変る意味である。最後、噴火が出て、会場全体の雰囲気が最高に達すること。

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