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四川省徳陽市三国志遺跡


農村バスで、徳陽市北 15kmにある徳陽市旌陽区黄許鎮北にある旧綿竹古城跡を見学。漢、蜀、西晋の時代、綿竹城はここにあった(東晋の時代に県役所が現在の綿竹城へ移転)。別名、「土将台」遺跡ともいう。徳陽北バスターミナルから、路線バス(徳陽⇔略坪)2元、「新龍村十三組」にて下車。快速バス(羅江行バス)2.5元、黄許鎮中にで下車、バスorバイクタクシー乗換。それぞれ、15分に1本あり。

蜀末期の263年10月、諸葛瞻(37歳)とその子諸葛尚(19歳)、諸葛京らは蜀成都より防衛都督に任命され、涪城(今の 綿陽市)へ入城。ここで、鐘会の先方隊を撃破する。そして、いったん涪城から撤収して、戦線をこの綿竹城まで引き下げた。綿竹城滞在中、鄧艾からの降伏勧告の使者を激怒して切り伏せる。

そして鄧艾本隊を迎え撃つべく、綿竹城から出て、対岸の白馬関の峠にて迎撃態勢をとる(だいたい北東方面へ距離10kmぐらい、徒歩2~3時間離れた山間部を戦場に選んだのも、蜀の滅亡を予期し、少なくとも綿竹城内の市民らの巻き添えを避けるためであったと推察される。実際、諸葛瞻は蜀政権の腐敗に嫌気がさし、長らく病を理由に中央政庁への登庁を拒んでいたらしい)。死に物狂いの魏軍に対し、多勢に無勢、完膚なきまでに敗北し、諸葛父子、張遵(張飛の孫)、黄崇(黄権の子)ら名立たる将軍が戦死し、残兵らは皆、散り散りに離散した。

そののち、綿竹城の守備軍も、魏軍の攻勢にあえなく落城。 そして、鐘会の魏軍はそのまま南の雒城(広漢市)を無傷で占領し、成都へ迫る。その知らせをうけて、劉禅は降伏する。諸葛瞻の蜀防衛軍敗北の知らせを受けた姜維などの蜀主力軍は、剣閣より急ぎ戻り、雒城(広漢市)へ入城するも、劉禅の命令を受け武装解除するに至る。

まさに、蜀滅亡の 最終局面 の戦いであったわけである。

かつての古城跡から北東方面の白馬関の山脈を臨む。ここから峠を越えて、北の涪城(現在の綿陽市)との間に古道があったのであろう。その綿竹側への入り口付近である、白馬関にて魏軍を迎え撃った、わけである。現在、白馬関一帯は、古戦場跡の公園となっている。
その中には、諸葛点将台(ここで諸葛瞻らが本陣をかまえて、魏軍を迎えうった地)という場所も残されている。
さて、その三国時代の 綿竹城跡 であるが、もう今はすっかり水田と農村地帯である。

水田の畦道へ分け入り、河辺まで前進してみた。断崖絶壁である。畦道を歩いていて感じたのは、昔の古城跡からの転用なのか、石ころがたくさん含まれていた。普通の畦道は土を盛っただけなのに、ここでは石がふんだんに混ぜ込められていた。

三国時代の綿竹城跡から綿遠河(かつて綿水と呼ばれていた)へ目を転じると、結構な高さがあった。昔は、もっと河辺に近い城だったに違いない。つまり、今は台地部分となってしまった、この水田の下にかつての城壁都市の市街地が眠っているのであろう。
実際、発掘調査は 1986年から数度に分けて実施されたようだが、その際、陶器や石垣、古銭類が出土したそうである。特に、「土将台」付近では、旧綿竹城の城壁の盛り土が残存しており、その全敷地は東西 60m、南北 65mの規模であったことが分かっているらしい。
前漢武帝時代(紀元前 106年)、中国全土は13州制度に改変され、益州に属したこの地、益州史治として州役所が雒県(現在の 広漢市)に設置されていた。このころは、まだまだ三星堆遺跡のあった、古蜀国の都城跡の雒県の方が政治的、経済的な中心都市であったようである。
前漢滅亡後、新王朝の時代、益州は庸部と改名されるも、その行政府は引き続き、雒県に置かれた。そして、後漢王朝時代に入り、益州と広漢郡が復活するも、雒県は州役所から、広漢郡の郡役所として降格され、州役所は一時、この綿竹城に移ることになった。 しかし、後漢末期の益州牧「劉焉」はこの綿竹城から、雒県へ益州役所を再移転するも、州都たる器ではないと判断し、自身の孫「劉循」に雒城を任せ、さらに南の成都城へ引っ越す。ここから現在の 成都市 が行政の中心地として歴史に登場することになる。

後漢時代の一時期にせよ、益州全体の行政を担う中核都市であった旧綿竹城は、その後、なぜ廃止され、打ち捨てられた場所になってしまったのであろうか。これは今の現「綿陽市」との関係から読み解ける。

現「綿竹市」は、漢代には広漢郡綿竹県(旧綿竹古城が県役所)に属していたが、蜀奪取後の劉備により、統治行政区変更の改革が実施され、現「綿竹市」は、旧綿竹県城から分離された陽泉県の県役所所在地に昇格された。県役所になるぐらいだから、当時からそれなりの地方都市であったのであろう。

蜀滅亡後、この陽泉県が廃止され、再度、広漢郡綿竹県へ再編入されたようである。

三国時代を統一した晋帝国の平穏も長くはなく、旧魏領の華北を中心に長い戦乱が続くこととなり、この混乱に乗じて、当時、旧綿竹城を本拠地としていた「李特」は、華北地域から多くの難民を受け入れ、旧綿竹城の勢力は大きく膨れ上がっていたわけであるが、当時、晋国の正式な益州刺史として派遣されていた「羅尚」と対立し、益州内部で戦乱が巻き起こる。この戦いは、 1年ほどで「李特」の殺害により平定される。しかし、同年内にも、「李特」の三男「李雄」により、益州成都」は奪還され、翌304年、はれて西晋より独立を宣言、「成漢国」の成立となった(五胡十六国時代の幕開け)。この後、蜀の地は平穏な時代を迎え、反面、晋帝国は316年に滅亡、中原を放棄して、翌年、東晋帝国として江南の地へ遷都する。

その後、347年、東晋荊州刺史の桓温を派遣して、この成漢国を制圧する。そして、東晋統治下の358年、現「綿竹市」は、新しく設置された新都郡の管轄下となり、さらに398年、新都郡をさらに分割した晋熙郡が設置された際、その下の萇陽県、南武都県、晋熙県の3県のうち、晋熙県の県役所として、地方行政府に返り咲くに至る。この行政改革の中で、旧綿竹城は正式に廃城とされたものと見られる。その理由としては、晋国に反逆した「李特」一族の出身母体の地として警戒されたのであろう。また、現「綿陽市」の地理的条件自体が、西部にある異民族国家への戦力拠点として重視されたこともあろう。
そして、綿遠河の水運物流拠点は、やや南方に位置する現在の徳陽市へと集約させられていき、旧綿竹城市街は完全に役割を終えたことであろう。

現「綿竹市」の方は、このときの東晋時代の県役所機能が清末まで残り、現在の発展の礎となったようである。
黄許鎮
旧綿竹城がある黄江鎮の村は、ちょうど 徳陽市 から北の綿陽市へ向かう高速道路の入り口となっており、その高速道路の入り口付近は、三国志風情をたたずませて、観光客の目を楽しませてくれていた。壁々には、三国志の英雄たちの肖像画や名場面の数々、建物の軒先は、やや時代劇風にアレンジされていた。これを観察しながら、かつて諸葛孔明姜維劉備等も、成都~雒城~綿竹~涪城~剣閣~漢中へと往来したあろう綿遠江の川橋を渡って帰途につく。水量がとても少ない。

旧綿竹城の 三国志エピソード として、先の蜀末期の話とともに、蜀成立期の話もついてに触れておきたい。
213年、劉璋と敵対関係に入った劉備が蜀奪取へ進軍する際、漢中側より南下し、北側に位置する涪城(以下の 綿陽市)~綿竹城~雒城(今の 広漢市)~成都城を目指したわけであるが、ちょうど涪城から綿竹城へと至る山々の峠(ここも白馬関である)にて、軍師「龐統」が流れ矢で死亡し、この白馬関の地にて葬られている。所謂、落龐坡とはこの地であり、龐统廟としての墓所がある。

劉璋の勇将「張任」は最前線の涪城での防衛戦に失敗し、いったんこの旧綿竹城へ撤退した。そして、ここで城主の李厳を残して、張任の残兵らは更に南の雒城(今の広漢市)まで引き上げさせたとみられる(綿遠江沿いに船で)。この城を李厳に任せて時間稼ぎしている間に、防衛戦線の立て直しを進めようとしたのであろうか。
あわせて、綿竹城の前線にあたる山間道である白馬関の峠付近で伏兵を潜ませ、劉備軍の先方隊を遅らせる作戦を取ったのであろう。そして、軍師「龐統」が戦死。張任らは、劉備軍の進軍を遅らせることに成功し、さらに南側の雒城にて迎撃態勢を整えた、と考えられる。しかし、旧綿竹城主であった李厳はすぐに劉備に降伏してしまう。また、劉循張任らが守る雒城も劉備軍に包囲され、張任は城外へ誘い出された際、劉備軍により捕縛される。結局、劉備の軍門に下ることを拒否し斬首され、手厚く葬られたという。その張任墓が今でも 広漢市 に残されている。
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