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成都観光  成都現地ツアー 成都旅行 浣花溪公园

浣花溪公园
浣花渓公園は成都市の西南で一環路と二環路の間にあり、北は杜甫草堂、東は四川省博物館と接し、成都で面積が一番大きい都市森林公園です。浣花渓公園を通り抜けると杜甫草堂に着きます。
浣花渓公園の物語
浣花渓公園は浣花夫人の物語に由縁があります。話によると、浣花夫人は唐の時代の浣花渓の岸部にある農家の娘です。若い頃のある日、彼女が岸辺に洗濯していた時、ある全身に吹き出物ができているお坊さんが溝に転び落ち、泥だらけの袈裟を脱ぎ、彼女に洗ってもらいました。彼女は喜んで洗ってあげました。すると、彼女は渓流の中で服を洗っている所に、多くの蓮花が生えました。あっという間に水面は蓮花でいっぱいになりました、なので浣花渓と名付けられました。
浣花渓公園:万樹園、梅園、白鷺園
浣花渓公園は万樹園、梅園、白鷺園の三つの部分からなっています。園内には一つの人工湖である滄浪湖、一か所の湿地である白鷺洲、陽光芝生等の名所があります。浣花渓公園は四川西部の文化特色を持ち、園内の緑地面積は21万平方メートルで、樹齢百年の木犀、楠、銀杏、芙蓉などは鬱蒼と茂っており、色とりどりの花が咲き競っています。若草は敷物のようでいい香りを放っています。ここで結婚記念写真を撮ってるカップルたちをよく見かけるので、これは独特な景色と言えるでしょう。
浣花渓公園は景色が美しく、長い歴史と文化を持っているので、有名な古代の詩人の彫像、世界を救い人の知恵を啓発する詩歌は、現在と古代を繋いでいます。多くの古代詩人の彫像はここに集まっています。
浣花渓公園の中には成都の最大の人工湖—緑波湖があります。中には大小幾つかの島が点在し、道で繋がっています。山紫水明の景色はまるで絵のようです。徒歩で観覧するほか、園内の観光バスに乗ってもよいでしょう。
琴台路は寛・窄巷子の南西に隣接する成都の宝石販売の大通りす。市内の大手宝石店はここに集まり、小さな料理屋さんも何軒かあります。琴台路の長さは900mで、両側には保存された古風な建物が立ち並び、2002年から民衆に開放されました。この街は漢や唐の時代の古風な建物を背景とし、司馬相如と卓文君のラブストーリーを主題とし、漢代の礼儀、舞踊、音楽、飲食などの民俗文化を表しています。
琴台路
琴台路は西漢期の伝奇人物―卓文君と司馬相如の美談を記念するために名付けられたので、ここに来ると、彼らのラブストーリーをきっと知りたいですね。
卓文君と司馬相如の物語
卓文君は西漢の人で、美貌と才能の両方を備えており、彼女は裕福な家に生まれ、琴も得意でした。それ故彼女に求婚した人も多かったですが、彼女は貧しい書生である司馬相如だけを気に入りました。司馬相如は琴と文章に長じていましたが、家柄はよくないので、なかなか卓文君の家族に受け入れられませんでした。卓文君は愛のため、豊な生活をあきらめ思い切って司馬相如と一緒に駆け落ちしました。司馬相如には一銭もないので、仕方なく卓文君と琴台路で酒屋を始めました。人の嘲笑にも関わらず、卓文君は自ら酒を売り、司馬相如は雑事を手伝っていました。その後、卓王孫は自分のメンツを守るためよく二人を助けたので、二人はやっと豊かな生活を過ごせました。最後、司馬相如は官吏になり、偉くなった当初、卓文君を棄てようという考えが涌き、そして卓文君に何も書かない空白の手紙を書きました。卓文君はその手紙を見てすぐ悟り、詩を作って返事しました。司馬相如はその詩を読み、恥ずかしくてたまりません。その後、夫婦はずっと幸福な一生を送りました。
青い石板で舗装された道を歩くと、灰色の壁、形が様々な灯籠、尖っている軒……道の両側の古風の建物や建築の輪郭を描いているネオンは注目を集めています。そのほか漢の時代の浮き彫りもあり、これを一枚一枚読みながら進むと、漢の時代の宴会、歌舞、遊園、狩猟、車馬など当時の生活の有り様を大体分かるようになります。
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西嶺雪山スキー 成都観光  成都現地ツアー

成都で最も人気な観光スポットはパンダ繁殖センターです。毎年、大勢の人々が可愛いパンダと出会うために、成都に訪れます。そのほかに、成都の近くにある山景や「世界水利文化の開祖」と呼ばれ都江堰の景色をを楽しみたり、豊かな都市文化を体験したりすることができます。
西嶺雪山は四川省成都市の大邑県にあり、成都から西へ95キロ離れています。
唐の時代の最高の詩人杜甫の名句「窓含西嶺千秋雪、門泊東呉萬里船(窓には西嶺千秋の雪が見え、門前には東呉万里の船が泊る)」によって名づけられました。西嶺雪山には一年中雪が積もっている雪山が聳えており、成都の最高峰として標高は5364メートルに達しています。春のホトトギス、秋の紅葉を楽しみ、夏は避暑地、冬はスキー場として名高いです。
四季の見所
春は花が咲き乱れ、ツツジが果てしなく広がり、ハンカチノキの花は翼を広げている鳩のようです。30種類以上のツツジの帯が延々数10キロ続いており、毎年4月から8月まで標高の低い所から徐々に咲き出し、花の海のごとく山を覆っていきます。
夏は緑いっぱいで涼しく、最高気温も25度を超えることはありません。
秋は山々が紅葉に染まり、赤、黄、緑の三色からなる美しい景色に変貌します。
冬は11月から翌年の3月まで積雪の時期です。約4か月間で、積雪が60センチあり、スキー場として理想的な所です。アルペンスキースノーモービル犬ぞりなど10以上のアクティビティにご参加いただけます。
西嶺雪山は前山と後山に分かれており、前山は山登りの方に好まれています。前山の長さは18キロで、全行程は9時間から12時間かかります。後山には綺麗なスキー場(冬)とグラススキー場(夏)があり、ゲレンデ沿いの道で歩いて「日月坪」という山頂まで上れます。或いはリフトに乗って山頂付近まで容易に上れます。歩いて登る場合はおよそ2.5~5時間ぐらいかかります。
交通アクセス
1、成都―大邑県、大邑県-西嶺鎮。
2、成都の金沙バスターミナルから毎日西嶺雪山まで直行のバスがあります。朝9時と昼12時に発車し、午後の2時と4時には戻ることなっています。
注意事項
必要な装備品:ステッキ、水筒、手袋、カイロ、レインコート
1、十分な防寒着をお持ちください。特に徒歩で山登りする方は自分の身体状況を十分考えた上、十分な防寒着ご準備ください。
2、防寒性が優れていて、カメラを操りやすい手袋がベストです。
3、安全な面から考えると、徒歩で山登りする方は何人かでグループになって行動したほうがよいでしょう。もちろん、山では安全のため、いろいろ工夫されていますが、徒歩の時間は長いし、冬の道の状況はよくないし、海抜が高いので、何人かいれば、お互いに助け合い、安全性が高くなります。
4、冬は寒く、カメラにも影響するので、カメラを長時間外に出さないようご注意ください。
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汶川地震博物館
汶川地震博物館は2009年に開館、「5•12汶川大地震」を記念するために創建された大規模な博物館である。
狭い観点から言うと、汶川地震博物館は北川地震博物館の建設構想により建てられた。また、広い観点から言うと、汶川地震は300キロメートルの竜門山断層を成した、その地震記念碑を建て、記念施設や文化財館を設置しており、すべては地震遺物保全の為めである。博物館の内容は写真と文章の資料、汶川大地震の遺跡博物館(記念館)、記念地及び地震文化財が含まれている。本館は10万枚の文化財を募集して、それぞれに精確な説明もつけてある。
それ以外に、数ヶ所の地震により壊されたままの状態の現場を保存し、「汶川被害者記念碑」を設立し、地震や被災者救済に関することも保存している。汶川地震博物館は地震についての「生き字引」と言っても言い過ぎでない。
主な展示物
被害者の遺物などの地震のすべての証拠物、発行の切手、記念封筒などの郵政のマック、地震災害救済を記録する切手集、軍警や志願者の実物資料などの地震災害救済証拠物
住所
成都市大邑県安仁鎮清江路368号

自貢恐竜博物館 
四川省自貢市の東北に1987年に開館した、世界の有名な「大山舗の恐竜の化石群の遺跡」のところで建設された。中国一大規模な専門恐竜博物館であり、世界の三大恐竜の遺跡博物館の一つでもある。
大山舗から発掘された恐竜の化石を主として展示している。展覧は三つの部分から成っている。第1部分は重点的に恐竜に関する基礎知識について紹介している。例えば生物進化、化石、地質年代、恐竜の進化と分類などである。第2部分は主に大山舗の各類の恐竜の化石を紹介している。第3部分は恐竜を埋葬する遺跡を紹介し、人々に広面積の発掘現場を公開している。
館所蔵の化石の標本は2.05-1.35億年前のジュラ紀の時期の恐竜の種類がほとんどあり、現在収集されているジュラ紀の恐竜の化石は世界で最も多い。米国の『全世界の地理の雑誌』に「世界で最も良い恐竜博物館」を評価された。
主な展示物
恐竜の化石、埋蔵した(発掘?)現場、「ジュラ紀の恐竜の世界」(「恐竜の世界——恐竜の遺跡——恐竜の時代の動植物——貴重な品のホール——恐竜の再現」により、順番に展開する)
住所
中国四川省自贡市大山舗238号
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成都旅行 成都グルメ 成都名物店 四川料理

成都料理
成都重慶といった都市がある四川省は、盆地で周りは山に囲まれているので夏は蒸し暑く、冬は霧が濃く晴天の日はほとんどありません。四川料理はこのような独特の気候風土をもとにして生まれた料理で、味の特徴は、酸味が利いているほか、“麻辣”と言われる味つけがあります。
 “麻”とは舌が痺れるような山椒の味、“辣”は唐辛子の辛さを表しています。長江の上流にある四川盆地は「天府の国」といわれ、古来より豚肉、牛肉、鶏、川魚、野菜などの食材が豊富にあります。四川省の周りには海がないので乾物も多く使用されるほか、“小吃”という手軽に食べられるファーストフード的なものが多いという特徴もあります。代表的な料理は麻婆豆腐、宮保鶏丁、棒棒鶏、担担麺です。
成都の名物料理
麻婆豆腐ー成都料理
麻婆豆腐
 『陳麻婆豆腐店』は国によって指定された「中華老舗」のうちの一軒で、清時代1862年成都郊外の万福橋で開業しました。元の名前は『陳興盛飯鋪』といい、調理師は陳春富氏の奥さんでした。陳氏の作ったものは豆腐の色合いがよく、牛肉の粒もさくさくとして軟らかかったそうです。また「麻」や「辣」など四川料理独特のおいしさがありすぐに有名になり客も殺到しました。またある人によれば陳氏の顔には痘痕があるので陳氏の作った豆腐が『陳麻婆豆腐』と名づけられ、店も『陳麻婆豆腐店』と呼ばれるようになったそうです。清時代末年になり『陳麻婆豆腐』は成都の名物料理になりました。
担担麺(タンタンメン)
 担担麺は小麦粉で作った麺を煮て、炒めた豚肉と一緒に食べる料理です。この料理は四川省に広く伝わっています。担担麺の中でも一番有名なのは『陳包包担担麺』です。『陳包包担担麺』は自貢市の陳包包という人が1841年に初めて作り担いで売り歩いたためにこう名づけられました。以前は鍋を2つに分けて、うち1つは煮た麺を入れ、もう1つには鶏或いは豚の腿肉を煮たものが入っていました。現在、重慶成都、自貢などでは従来からの特色のある担担麺のお店があります。その中でも成都の担担麺が一番、特色があります。
夫妻肺片(フチフェペン)ー成都料理
夫妻肺片(フチフェペン)
 「夫妻肺片」は成都地区の有名な料理です。1930年代成都少城の郭朝華という男性が妻と一緒に街で凉拌牛肺片(牛の肺をうすく切り、冷たいまま調味料と和えた料理)を売り歩いていたそうです。この夫妻の作った凉拌牛肺片の味は独特で人々に大変好評でした。彼らの作ったものを他の店のものと区別するために「夫妻肺片」と呼ばれていました。彼らが店を構えて商売を始めてからは牛肉やタンも加えボリュームも増えていきました。この料理の本来の味を保つために「夫妻肺片」という料理名は今でも使われています。
北涼粉(チャンベリャンフン)
 冷たいままで食べる麺類の料理です。謝天禄という人物が南充渡し場(南充:南充市、四川省にあります)で涼粉を売ったことに始まります。その涼粉は柔らかくて、調味料が辛くて香りもよいため、人気があります。その後「川北涼粉店」を開きました。現在では、川北涼粉は有名で大変人気があります。
成都の美食街
 成都には数多くのそれぞれ特徴のある美食街があり、西から東まで団扇状に並んでいます。錦里小吃街、沙西美食街(沙湾路西延線)、一品天下美食街、羊西線美食街、府南新区火鍋一条街、草堂餐飲娯楽圈(琴台路、錦里西路、芳隣路和青華路)、万達广場美食街、武侯祠大街——双楠美食区、望平街美食区、春熙路小吃街区などがあります。
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成都観光 成都旅行 成都観光スポット 成都歩行街

寛窄巷子
寛窄巷子は古代から残された横町で、濃厚な歴史文化を持つほか、しっかり整えられとてもおしゃれな所で、上海の新天地と似ていますが、雰囲気はちょっと違います。寛窄巷子は三つの巷子(横町)からなり、それぞれは寛巷子、窄巷子、井巷子です。
寛窄巷子は成都で唯一残された清の時代の街で、南方の四川西部の住家の特徴を持ちながら、北方の満蒙文化の粋も含んでいます。寛窄巷子は成都の歴史と変化の証人です。
今の寛巷子には街内で最も多くしかも無傷である古い建築が集まっており、20軒余りの特色を持つ住宅があり、大部分は昔のままで残され、ほかの二つの巷子(横町)より古代の風情に富んでいます。ここは成都ののんびりした生活の見本だといえます。お茶を飲んだり、本場の四川料理を食べたり、成都の風土や人情を体験できます。
古代の建築を真似して建てられた錦里と違い、寛窄巷子は本物の古代建築です。中国の西南部にありながら、北方の建築様式です。これはなぜでしょうか? 清の康熙の時代に、康熙皇帝はチベットを鎮めるため北方の兵士を派遣しました。その後、千人ぐらいの兵士を成都に駐屯させました。寛窄巷子はその兵士たちによって、多くは四合院の建築様式で建てられました。ですから、ここは中国南方で北方の建築を最も保存してきた所となりました。
トイレ:観光地には二つの公衆トイレしかなく、一つは入口、もう一つは巷子の突当りにあります。
巷子は昔「如意胡同」と呼ばれ、辛亥革命の後は「井巷子」と改名されました。康熙の時代、多くの兵士が駐屯していたので、、この巷子は水不足になり、仕方なく巷子の西に井戸を掘り、兵士に水を提供しました。井巷子はそのことよって名付けられました。
話によると、昔井巷子に住んでいた住民は地位が低く、召使い、家来が多かったので、住宅はボロボロで、長い時間を経て、今の井巷子は半分だけになったので、約380メートルの長さしかありません。
寛窄巷子に来ると、静かな所或いは路傍の藤椅子に座り、ひなたぼっこをしながらぼんやりしたり、劇を聞いたり、昔話を語ったり、のんびりして時間を潰します。これは成都での生活スタイルです。
春熙路
ビルを上るパンダ
春熙路に行ったことなければ本当に成都に来たことがあるとは言えないと地元の人がよく言っています。ここは多くのデパートが集まり、一軒から出たらすぐ次のが目に入ります。
春熙路は成都都心部にあり、東大街の北部、南新街、中新街、北新街の東部、総府路の南部、紅星路の西部からなるエリアで、面積は20万平方メートルに達しています。春熙路は長い歴史を持つ繁華街で、成都で最も賑やかな商業歩道街です。
成都の春熙路は1924年命名され、今は88年の歴史を持ち、「百年金街」という美称があります。春熙路は商人の寄付と役所の命令によって建てられ、軍閥の時期に落成しました。当時の四川省の官吏である楊森の提案によって建てられ、最初は南北を貫く一つの街だけが建てられましたが、その後東西を繋ぐ二つの街が建てられました。最初は「森威路」と呼ばれていますが。老子の「道徳経」の中の詩句「众人熙熙,如登春台(みんなうれしく、まるで美しい景色を楽しんでいる様子。)」から春熙という二文字が用いられて名付けられました。ここは賑やかな繁華街で人々が楽しく生活している景色を描いています。
春熙路の最大の特徴はここは各ブランド品の専門店や数多くの老舗が集まり、観光客と地元のサラリーマンに好まれる所です。成都に来て観光客がもし春熙路を回らないことは、北京に行って王府井を回らないこと、上海に行って南京路を回らないことと同じで、とても損したことです。春熙路は成都で美人がたくさんいるファッションセンターだけでなく、グルメも数えきれないほど多くあります。
成都锦里
錦里は四川西部で最も古い歴史を持つ商業街の一つで、秦、漢、三国の時代でも中国で名を知られていました。錦里は武侯祠の隣、チベット自治区成都連絡所の周りに位置しているので、洗面橋横街、武侯祠横街など近くの街には多くのチベット人や僧侶が目に入ります。彼達はみんな身長が高く、皮膚は日焼けして黒く、伝統的な民族衣装を着ています。
成都の武侯祠博物館(三国歴史遺跡区、錦里、西区)の一部分として、錦里街の長さは550メートルで、三国文化と四川伝統民俗文化を主な内容としています。古街にはバーのエリア、四川料理屋エリア、府第旅館エリア、お土産の販売エリアが整えられています。
錦里は三国文化を主題として作られた古風な商業街です。ここは観光客に好まれるほか、優れている立地条件のおかげで、地元の人にも大人気です。
夜の錦里も面白く、上海の城隍廟と似ていますが、それほどうるさくはなく、古めかしい庭、特色のある店は濃厚な四川の風情が溢れています。
琴台路
琴台路は寛・窄巷子の南西に隣接する成都の宝石販売の大通りす。市内の大手宝石店はここに集まり、小さな料理屋さんも何軒かあります。琴台路の長さは900mで、両側には保存された古風な建物が立ち並び、2002年から民衆に開放されました。この街は漢や唐の時代の古風な建物を背景とし、司馬相如と卓文君のラブストーリーを主題とし、漢代の礼儀、舞踊、音楽、飲食などの民俗文化を表しています。
琴台路は西漢期の伝奇人物―卓文君と司馬相如の美談を記念するために名付けられたので、ここに来ると、彼らのラブストーリーをきっと知りたいですね。
卓文君と司馬相如の物語
卓文君は西漢の人で、美貌と才能の両方を備えており、彼女は裕福な家に生まれ、琴も得意でした。それ故彼女に求婚した人も多かったですが、彼女は貧しい書生である司馬相如だけを気に入りました。司馬相如は琴と文章に長じていましたが、家柄はよくないので、なかなか卓文君の家族に受け入れられませんでした。卓文君は愛のため、豊な生活をあきらめ思い切って司馬相如と一緒に駆け落ちしました。司馬相如には一銭もないので、仕方なく卓文君と琴台路で酒屋を始めました。人の嘲笑にも関わらず、卓文君は自ら酒を売り、司馬相如は雑事を手伝っていました。その後、卓王孫は自分のメンツを守るためよく二人を助けたので、二人はやっと豊かな生活を過ごせました。最後、司馬相如は官吏になり、偉くなった当初、卓文君を棄てようという考えが涌き、そして卓文君に何も書かない空白の手紙を書きました。卓文君はその手紙を見てすぐ悟り、詩を作って返事しました。司馬相如はその詩を読み、恥ずかしくてたまりません。その後、夫婦はずっと幸福な一生を送りました。
青い石板で舗装された道を歩くと、灰色の壁、形が様々な灯籠、尖っている軒……道の両側の古風の建物や建築の輪郭を描いているネオンは注目を集めています。そのほか漢の時代の浮き彫りもあり、これを一枚一枚読みながら進むと、漢の時代の宴会、歌舞、遊園、狩猟、車馬など当時の生活の有り様を大体分かるようになります。
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武侯祠
成都市市内にある三国時代蜀漢の宰相・諸葛亮孔明)を祭った社です。6世紀ごろから建てられ始め、明代には隣接する主君・劉備玄徳の陵墓、漢昭烈廟と併合されました。孔明の贈り名である忠武侯にちなむ武侯祠として親しまれています。戦火のため、現存する建物は清代康熙の1672年に再建されたものです。
3.7万平方メートルの広大な境内には、南北方向の中軸線に沿って大門、二門、劉備殿、過庁、諸葛亮殿の五つ主体建築があります。劉備殿には金泥の劉備像が安置され、側棟には関羽張飛ら文官、武官の塑像があります。諸葛亮殿には、孔明の像や南征時に鍋や銅鑼として使ったという、諸葛亮自ら作ったといわれる青銅製の巨大な諸葛鼓などの文物が納められています。
また、大門を通ると、生い茂る緑の中に六通の石碑があり、中でも孔明を称えた唐代の809年建立の石碑はかなりの文物価値を持っており、"三絶碑"と呼ばれています。これらは唐代の著名宰相裴度が作った碑文、書法家柳公権が書いた書、名匠魯建が彫ったもので、いずれも卓越しています。
杜甫草堂
杜甫草堂は唐代の詩人-杜甫成都に住んでいた時の住居です。759年から約4年間、杜甫安禄山の乱を逃れるために成都に移り住み、絵のように美しい街の郊外にある浣花溪のほとりにあばらやを建てて質素な生活を送りました。彼の全作品1400首のうち、代表作を含む247首がここで生まれました。唐末期には杜甫を称えるためにあばらやの跡地に草堂が建てられましたが明代になり再建されて今日に至っています。
1811年、杜甫草堂の規模とレイアウトが決められ、記念となる祠と詩人の旧居が一体となった博物館のようになっています。古めかしく素朴な雰囲気に溢れ、幽玄の美として名声を博しています。
杜甫草堂は清の嘉慶皇帝の時代に建て直された際の設計をそのままに、総面積は300ムー(1ムー=6.6アール)あります。庭園は非常に独特で、いわゆる「混合式」という中国の古典庭園様式です。博物館はそれぞれ文物観光スポット(草堂の旧跡)、庭園(梅園)、サービスゾーン(草堂寺)に分けられています。草堂旧跡内には照壁、正門、大廨、詩史堂、柴門、工部祠が一直線上に配されており、回廊は左右対称で、その両側にはその他付属建築物があります。間を水が流れ、小さな橋が連なり、竹林が茂り、荘厳かつ古風質素、静かで静寂な雰囲気を醸し出しています。
杜甫草堂の中にある記念となる祠の中心的な建築は詩史堂です。真ん中には彫刻家の劉開渠によって彫られた杜甫像が置かれ、堂内には歴代の有名人が書かれた絵馬が陳列されています。工部祠内には杜甫肖像画が祀られています。祠の東側には「少陵草堂」という石碑を保護するためのあずまやがあり、それは杜甫の暮らしていたあばらやを象徴しています。
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世界遺産地都江堰水利施設と青城山 成都旅行  成都観光お勧め

都江堰
都江堰は四川省都江堰市の灌口という町に位置し、古代に建設され、今でも役に立っている大規模な水利プロジェクトです。「世界水利文化の開祖」と呼ばれ、中国の有名な名所古跡の一つです。秦の時代の蜀郡の太守(注釈:中国の古代の官職)李氷父子が群衆を率いて、紀元前256年ごろ都江堰水利プロジェクトを建設しました。今では、全世界で歴史が最も長く、唯一保存され、しかもダムがなくて引航を実現する大型の水利プロジェクトです。2000年、悠久な歴史、大きいな規模、合理的な構成、科学的な運行、環境にもやさしいなどの特徴で、また歴史の面でも科学の分野でも高い価値を備えているので、都江堰水利プロジェクトは世界文化遺産に登録されました。
現在、成都平原は「天府の国」と呼ばれていますが、古代には実に旱魃や洪水も非常に頻繁な地域でした。岷江は長江の支流で、しかも水量がすごく豊富で、ちょうど四川盆地という中国西部の豊かな地域を経由し、典型的な地上川になりました。都江堰と成都の距離はわずか50キロメートルですが、しかし273メートルの驚くほどの高低差があります。古代には、岷江は洪水が発生したら、成都平原は果てしのない海原になって、旱魃(かんばつ:雨が降らないなどの理由で土壌が乾ききってしまい、農作物が育たない状況。)が発生したら、また不毛の地域になってしまいました。
魚嘴
都江堰水利プロジェクトは洪水防止、農業灌漑用水の提供、水上運送を一体とした水利工事です。都江堰の第一肝心な部分の魚嘴は分水の役割を果たしています。魚嘴(岷江の流れを適切な比率で本流と灌江に分ける「魚嘴」は最も重要な構造物である。)の建設場所、大きさ、長さ、高さ、傾斜角度と造る位置の周辺の水流流速、水量などが全部精密に計算、設計されています。それで造った魚嘴がうまく岷江の内江と外江の分水をしています。増水期は上流から流れてきた岷江総水量の60%が外江に入り、40%が内江に流れます、渇水期が逆になり、60%の水量が内江に入り、40%の水量が外江に入ります。そうすると、うまく内江に入る水量をコントロールして、増水期の洪水を防ぎ、渇水期には農業灌漑用水を確保します。
宝瓶
都江堰第二の肝心部分‐宝瓶口は成都へ水を導く主要な役割のほかに2回目の分水効果もあります。宝瓶口は幅が一定なので、その中に入る水が自然に制限されています。余った水は、飛沙堰を通って、外江に流れ、効率的な2回目の分水機能をしています。
都江堰水利プロジェクトのおかげで、成都平原は広くて肥沃な地域になって、中国西部は真珠のように輝いています。
青城山
 青城山は四川省都江堰市の西南部に位置し、古くは「丈人山」と呼ばれ、主峰は上空に天高くそびえ、海抜は1260メートルです。山全体の木々が四季を通して青さを保ち、諸峰を囲む城郭のようなので、青城山と呼ばれています。何千段もの階段があり、くねくねした小道は、奥深い静かな所まで通じています。高い木々に囲まれた幽玄な雰囲気が特色で、古くから「青城天下幽」という美誉を持ちます。剣門の険、峨眉の秀、夔门の雄と同じレベルに立っています。景勝地の面積は200平方メートルで、古人の記述によると、青城山には「三十六峰」、「八大洞」、「七十二小洞」、「一百八景」があると言われています。青城山
 青城山は前山と後山に分けられます。前山は青城山景勝地の主体の部分で、約15平方キロメートルあり、景色が美しく、文物と遺跡がたくさんあります。主な景観は建福宮、天然図画、天師洞、朝陽洞、祖師殿、上清宮などです。後山の総面積は100平方キロメートルで、水が澄み、奥深い林、山は雄壮で険しく、真直ぐ空高くそびえ、よじ登る事は不可能です。主な景観は金壁天倉、聖母洞、山泉霧潭、白雲群洞、天橋奇景などです。
 青城山は木々が青々と茂り、深緑の森林と峰、川、谷、宮と観(道教の寺院)は、互いに引き立て合っています。寺院と亭閣は自然から材料を取り入れ、装飾は少なく、山林岩泉と一体になり、道教の素朴自然を尊ぶスタイルが現れています。その他、青城山の特色は日の出、雲海、聖灯などの自然奇観です。
 青城山は中国の著名な道教名山であり、中国道教の発祥地の一つです。東漢以降、二千年も経過しています。公元143年、「天師」張陵はここに来て、青城山の奥深さと緑深さが気に入り、家屋を作り道教を伝えました。青城山は道教の発祥地になり、道教から「第五洞天」と認定されました。山全体で今まで無傷に保存された数十の道教寺院には、天師洞を中心に、建福宮、上清宮、祖師殿、圆明宮、老君阁、玉清宮、朝陽洞などがあります。
 唐末期、有名な道士--杜光庭が青城山に来た後、天師道の伝統と上清道は結合されました。杜光庭は晩年、青城山に30年間定住し、著書をして説を立て、道教の発展に大きな影響をもたらしました。
 明代、青城山の道教流派は、全真道竜門派に属しました。全真道は「養身習静」という修行方法を創立します。当時、道士は山に定住して、宮観の保護、山林の栽培をさらに重視してきました。明朝末年、戦乱が頻繁に起き、道士達は避難して各地に散りました。清朝康熙八年まで、武当山全真道竜門派道士--陈清覚は青城山で教務を管理した後、局面はよい方向に向かいました。現在、青城山道教流派は、全真道竜門派丹台碧洞宗に属しています。
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四川料理 成都グルメ 成都名物店

 成都重慶といった都市がある四川省は、盆地で周りは山に囲まれているので夏は蒸し暑く、冬は霧が濃く晴天の日はほとんどありません。四川料理はこのような独特の気候風土をもとにして生まれた料理で、味の特徴は、酸味が利いているほか、“麻辣”と言われる味つけがあります。
 “麻”とは舌が痺れるような山椒の味、“辣”は唐辛子の辛さを表しています。長江の上流にある四川盆地は「天府の国」といわれ、古来より豚肉、牛肉、鶏、川魚、野菜などの食材が豊富にあります。四川省の周りには海がないので乾物も多く使用されるほか、“小吃”という手軽に食べられるファーストフード的なものが多いという特徴もあります。
 代表的な料理は《麻婆豆腐》《宮保鶏丁》《棒棒鶏》《担担麺》です。
四川料理
成都重慶といった都市がある四川省は、盆地で周りは山に囲まれているので夏は蒸し暑く、冬は霧が濃く晴天の日はほとんどありません。四川料理はこのような独特の気候風土をもとにして生まれた料理で、味の特徴は、酸味が利いているほか、“麻辣”と言われる味つけがあります。
 “麻”とは舌が痺れるような山椒の味、“辣”は唐辛子の辛さを表しています。長江の上流にある四川盆地は「天府の国」といわれ、古来より豚肉、牛肉、鶏、川魚、野菜などの食材が豊富にあります。四川省の周りには海がないので乾物も多く使用されるほか、“小吃”という手軽に食べられるファーストフード的なものが多いという特徴もあります。
 代表的な料理は麻婆豆腐、宮保鶏丁、棒棒鶏、担担麺です。
成都の名物料理
麻婆豆腐ー成都料理
麻婆豆腐
 『陳麻婆豆腐店』は国によって指定された「中華老舗」のうちの一軒で、清時代1862年成都郊外の万福橋で開業しました。元の名前は『陳興盛飯鋪』といい、調理師は陳春富氏の奥さんでした。陳氏の作ったものは豆腐の色合いがよく、牛肉の粒もさくさくとして軟らかかったそうです。また「麻」や「辣」など四川料理独特のおいしさがありすぐに有名になり客も殺到しました。またある人によれば陳氏の顔には痘痕があるので陳氏の作った豆腐が『陳麻婆豆腐』と名づけられ、店も『陳麻婆豆腐店』と呼ばれるようになったそうです。清時代末年になり『陳麻婆豆腐』は成都の名物料理になりました。
担担麺(タンタンメン)
 担担麺は小麦粉で作った麺を煮て、炒めた豚肉と一緒に食べる料理です。この料理は四川省に広く伝わっています。担担麺の中でも一番有名なのは『陳包包担担麺』です。『陳包包担担麺』は自貢市の陳包包という人が1841年に初めて作り担いで売り歩いたためにこう名づけられました。以前は鍋を2つに分けて、うち1つは煮た麺を入れ、もう1つには鶏或いは豚の腿肉を煮たものが入っていました。現在、重慶成都、自貢などでは従来からの特色のある担担麺のお店があります。その中でも成都の担担麺が一番、特色があります。
夫妻肺片(フチフェペン)ー四川料理
夫妻肺片(フチフェペン)
 「夫妻肺片」は成都地区の有名な料理です。1930年代成都少城の郭朝華という男性が妻と一緒に街で凉拌牛肺片(牛の肺をうすく切り、冷たいまま調味料と和えた料理)を売り歩いていたそうです。この夫妻の作った凉拌牛肺片の味は独特で人々に大変好評でした。彼らの作ったものを他の店のものと区別するために「夫妻肺片」と呼ばれていました。彼らが店を構えて商売を始めてからは牛肉やタンも加えボリュームも増えていきました。この料理の本来の味を保つために「夫妻肺片」という料理名は今でも使われています。
北涼粉(チャンベリャンフン)
 冷たいままで食べる麺類の料理です。謝天禄という人物が南充渡し場(南充:南充市、四川省にあります)で涼粉を売ったことに始まります。その涼粉は柔らかくて、調味料が辛くて香りもよいため、人気があります。その後「川北涼粉店」を開きました。現在では、川北涼粉は有名で大変人気があります。
成都の美食街
 成都には数多くのそれぞれ特徴のある美食街があり、西から東まで団扇状に並んでいます。錦里小吃街、沙西美食街(沙湾路西延線)、一品天下美食街、羊西線美食街、府南新区火鍋一条街、草堂餐飲娯楽圈(琴台路、錦里西路、芳隣路和青華路)、万達广場美食街、武侯祠大街——双楠美食区、望平街美食区、春熙路小吃街区などがあります。
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